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日本認知科学会

入会のご案内

安西祐一郎

2012年フェロー.
日本学術振興会理事長

安西祐一郎先生:認知科学研究者のモデル

「認知科学を志すものは,重箱の隅をつつくような研究をするべきではない」.正確ではないが,恐らく25年以上前,私がまだ学部を卒業したばかりで,ニンチカガクの「ニ」の字も知らないときに目にした(と記憶している)1頁程度の読書案内に書かれていた一文である.過度に専門化された領域は時として研究することの「楽しさ」の見えない「重箱の隅」をほじくりがちである.「文理融合」とか「学際的」とかいった言葉は,今では鼻をつまみたくなるほど世の中に溢れかえっているが,25年前の純粋な青年の心に響く一文であった. 安西祐一郎先生は,戦後間もない1946年8月東京都港区に誕生され,慶應義塾に幼稚舎から学ばれた.1965年慶應義塾高等学校を卒業後,慶應義塾大学工学部応用化学科に入学,1969年に卒業し(卒業論文は「活性炭の吸着特性」),慶應義塾大学大学院工学研究科管理工学専攻修士課程に入学,林喜男教授に師事する.修士論文「ホルダー有効利用による流体供給システムの最適制御」で扱った非線形ネットワークの最適化に関する論文(志水・安西・林共著)により1972年度計測自動制御学会技術論文賞を受賞されている.1971年同大学院管理工学専攻博士課程に入学,同時に工学部助手に就任.林教授,志水教授のもとでシステム工学と最適化のアルゴリズムを研究.博士課程を1974年3月に修了,博士論文「A Study on Integer Programming Algorithms and Their Applications」により工学博士を取得されている.

安西先生の学部から博士課程まで経歴は,理工学系に所属する研究者として「エリートコース」のように見える.同時に,人間の心を探究する「認知科学」と学部・大学院での研究は縁もゆかりもないように見える.なぜ,安西先生は,青年時代に築き上げた蓄積を投げ捨て(?)認知科学研究を始めたのだろうか?認知科学は,他の学問分野にはない危険な魅力を持っている.その危険性については後述するとして,安西先生の認知科学研究について語るには,30歳の誕生日を迎える直前に訪れた大きな転機について述べる必要がある. その転機とは,1976年から2年間の米国カーネギーメロン大学への留学である.カーネギーメロン大学では,心理学科兼コンピュータ科学科のポスドクとして2年間滞在し,学習と問題解決の認知的研究に着手された.当時の研究成果はY. Anzai and H. A. Simon, “The theory of learning by doing”, Psychological Review, Vol.86, 124–140 (1979) と して出版されている.2年の米国ピッツバーグ生活から帰国後,1981年から1年間カーネギーメロン大学人文社会科学部心理学科の客員助教授として再度滞米.当時の成果はY. Anzai, “Cognitive control of real-time event-driven systems”, Cog- nitive Science, Vol.8, 221–254 (1984)として出版されている.前者,Psychological Review 誌の偉さは認知科学,心理学を少し勉強したものであれば知らないはずはない.ちなみに,この論文の被引用数は現時点で700件以上ある(Google Scholarによる概算).その後,1982年から1985年3月まで慶應義塾大学理工学部管理工学科講師を務められている.

その後,安西先生にはもう一度転機が訪れる.1985年,幼稚舎から学んだ慶應義塾での職を辞し,戸田正直先生率いる北海道大学文学部行動科学科・同大学院文学研究科行動科学専攻助教授として着任する.安西先生着任以前の北大行動科学科は,心理学,文化人類学,動物生態学など認知科学に関連する主要研究分野の研究者を擁していた.「こころ」への科学的アプローチとしては,先駆的な組織だったといえる.しかし,戸田先生としては,まだ物足りなさを感じていたと推察する.つまり,旧来から存在する人間科学の学問領域を並べるだけでなく,情報科学を基盤とする新たなアプローチの必要性を感じていたに違いない.安西先生は,情報科学を基盤とする認知科学の総本山といえるカーネギーメロン大学での経験を有し,問題解決の計算機シミュレーションの研究実績を持っていた.戸田先生としては,喉から手が出るほど欲しい人材だったに違いない.

安西先生が北大に在籍されたのは,1985年4月から1988年3月までの3年間である.1つの組織で成果をあげるには短いようにも思う.しかし,この3年間は,認知科学研究者としての安西先生のキャリアに大きな影響を与えているに違いない.特に,学生(筆者を含む)への濃密な研究指導は,研究者としてだけでなく,教育者として無視できない.学生は,文句も言わず何週間も大学に寝泊まりし,計算機の前にかじりついていた.理工学系の研究室では珍しくないのかもしれないが,当時の文学部 (文学研究科)としてはあり得ない頑張りをみせていた.ちなみに,当時の安西研に所属し,(他大学を 含む)修士課程に進学した学生7名中6名が現在大学で教鞭をとっている.今日であれば,パワハラと疑われかねない厳しい(が,情熱的な)研究指導があっての賜物である.指導者が真剣なら学生も真剣に対峙するものである.

北大・文学部での教育・研究の後,安西先生は1988年4月慶應義塾大学理工学部電気工学科教授として慶應に復帰することになる.慶應に復帰した後は,1993年から2001年まで理工学部長兼大学院理工学研究科委員長に就任,その後,2001年から2009年まで慶應義塾長を勤められ,2011年から日本学術振興会理事長に就かれている.この間,1993年から本会の会長を務められた.ここ10数年間は,認知科学という枠を超え,大学組織や日本の研究・教育が進むべき方向を決定する上で重要となる数えきれないほど多くの要職を兼任されている. ここまで,安西先生の研究者としての道のりを出来るだけ客観的に述べてきた.言わば,事実(史実)である.ここからは,四半世紀以上にわたって,時に息苦しくなるほど近くで,時にアイドル的存在として遠巻きに,安西先生と接してきた筆者の主観を述べることにする.

安西先生(の人生)は,認知科学を志す若い(あるいは中年の)研究者にとってのモデルとなる.全ての若手研究者は参考にすべきである.「そんなことは,今更言われなくても分かっている」という読者は多かろう.ただ,「凄すぎて,野口英世(の伝記)のようだ(参考にするには遠すぎる)」という読者もいるかもしれない.しかし,これから述べる主観は,「認知科学」を志すものが,直面するいくつかの問題を解決する上で非常に参考になるはずである.

認知科学がターゲットとしている問題は,我々が朝起きてから寝るまで(そして寝ている間も)いつも直面している現象と深く関連する.朝身支度をしていて鏡の前で「最近老けてきたな」と思うのはなぜか(記憶と自己認知),通勤電車の中での読書に夢中になって乗り過ごしてしまったのはなぜか(注意のメカニズム).牛丼はやめて味噌ラーメンにしたのはなぜか(選択と意思決定).教授会での学部長の「笑顔」の意味はなんなのか(表情認知と心の理論).夕焼け雲をみてしんみりと感動してしまうのはなぜか(視覚認知と感情).など,数え上げればきりがない.安西先生が著書の中で述べているように,認知科学は「認知にかかわる現象を,従来の学問領域にとらわれず,情報の概念と情報科学の方法論を基礎として理解しようとする知的営み」(「心と脳–認知科学入門」,岩波書店,2011)である.我々が生活していく上で本当に沢山の「認知にかかわる現象」が存在する.

認知科学が研究対象としている自分自身の「心」の働きや他者の行動に関心のない人間はいない.文系理系,老若男女問わず,誰もが即席の認知科学者になれるのである.非常に魅力的な学問である.

ただし,先に述べたように認知科学のこの魅力は危険なものである.認知科学ほど「文理融合」が謳われている学問領域はない.同様に,認知科学ほど学際的アプローチの重要性が指摘されている分野はない.しかし,実際にどれほどの「認知科学者」が「文理」の文化の違いや異なる研究手法を体験・習得しているだろうか.「文理融合の学問としての認知科学」を語っている偉い先生は大勢いるが,理工学部と文学部の両者で専任として教鞭をとった先生は殆ど存在しないのではなかろうか.「言うは易く行うは難し」とはまさにこのことである.認知科学の危険性とは,大勢の人々を容易に「口先だけの」認知科学に引きずり込んでしまうことをさす.

実際に,文理を融合し学際的アプローチに基づいて認知科学を実践していくには,並々ならぬバイタリティと将来を見越した決断力を必要とする.安西先生のカーネギーメロン大学への留学や北大文学部への転籍は,安西先生のバイタリティと優れた先見性の賜物のような気がする.

人間の「こころ」を科学的に解明することを目指す認知科学において,研究アプローチの多様性と収束性は本質的である.学際的/統合的研究分野である認知科学は,これまでに,計算機を用いたコンピュータモデリングや脳機能イメージングなど多様なアプローチによって大きく進展してきた.しかし,個々の研究アプローチには一長一短があり,かつ,時としてアプローチ間で帰結されている結果が異なる場合がある.真の意味で認知科学が発展するには,アプローチの多様性に加えて,異なるアプローチから得られた成果を統合・収束する過程が大切である.この点でも,前掲,「認知にかかわる現象を,従来の学問領域にとらわれず,情報の概念と情報科学の方法論を基礎として理解しようとする知的営み」の一文は非常に重みがある.安西先生のカーネギーメロン大学への留学や北大文学部への転籍は,理工学系の「エリートコース」からの無謀な逸脱ではなく,大学院時代につちかわれた情報科学,システム科学的基盤に基づいた認知科学の王道であったと(今さらながら)解釈できる.

本文冒頭で取りあげた読書案内は,もちろん,安西先生が書かれたものである.今,自分自身が行っていることが「重箱の隅」でないか,「楽しい」と感じているか,常に思いだすように心がけている.

安西先生の日本認知科学会フェロー就任を機に,バイタリティと先見性のある人々が認知科学研究を更に発展させてくれることを祈念している.

主要文献(抜粋)

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(開一夫 記)