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日本認知科学会

入会のご案内

橋田浩一

2022年フェロー.
東京大学大学院情報理工学系研究科 附属ソーシャルICT研究センター・センター長

1. 認知科学のビジョナリー
 橋田浩一氏とはどのような研究者なのか? いわゆる経歴や業績はインターネットで検索していただくとして,本稿では橋田氏の研究者としての類稀なる才能について紹介したい.
 世の中にはさまざまなタイプの研究者がいる.周囲のことは一切気にせず,地道にコツコツと1 つのテーマを掘り下げるタイプ(我が道を行くタイプ).世間の流行に敏感で,自分にできそうなことを即応的に実施し,流行が終わればすぐに別のテーマを見つけるタイプ(八方美人タイプ).もちろん,「我が道タイプ」と「八方美人タイプ」のどちらが良いとか悪いとかをここで議論したいわけではない.十人十色.偉い先生は煩く「ああしろ,こうしろ」と言うかもしれないが,研究スタイルはなかなか変えられないし変わらない.「我が道タイプ」と「八方美人タイプ」の軸の上に橋田氏を置くとするならば,ちょうど中間に布置されるように思う.「中間」とはどっちつかずという意味ではない.世間の動向に敏感で,かつ,本質的なテーマを深く掘り下げるタイプである.
 認知科学に限らずどんな研究分野でも,研究者(研究スタイル)の多様性はその分野の将来を大きく左右する.多様な研究者がいるからこそ,新しい概念や方法の発見があり,その研究分野を発展させる.研究者の多様性は,つまり「注意」の多様性である.認知科学で「注意」と言えば,空間的注意が主流であろう.「注意」の多様性が重要な理由の1つは,空間的注意の多様性─つまり個々の研究者が自らの意思に基づいて研究テーマを選択すること─が当該研究分野におけるブレークスルーをもたらすからだ.皆が同じことを同じやり方でやっていては,あっと言う間にその分野は尻窄みになってしまう.一方で,皆がてんでばらばらなことをやっていても,その分野の成長はない.分野内メンバーの注意を1 つの方向に向けさせ,メンバーの関心を束ねることも必要だ.
 橋田氏は間違いなく「空間的注意能力」が高い研究者である.橋田氏がこれまでに選択・実施してきた(実施している)研究テーマは,自然言語処理や人工知能の理論的側面(言語理解から生成までを含む統合的理論)および実践的側面(対話システムや共同作業環境)であり,最近では,パーソナルデータの分散管理に基づくパーソナルAI の研究をしている.これらはどれも認知科学,人工知能の本質的課題である.橋田氏の優れている点は,当該テーマにおける本質的課題を独自のアイデアに基づいて解決を試みている点である.例えば,自然言語処理や認知モデルでは情報の部分性(あるいは知能の限定合理性)である.
 さて,橋田氏は「空間的注意能力」だけでなく,「時間的注意」に関してもずば抜けた能力を有している.研究における「時間的注意能力」とは,学術的社会的動向を客観的に見極め,「未来」に向けて本質的なテーマを選択し実行する能力のことを指す.つまり,他の研究者がまだ着手していない(気づいていない)重要な研究対象や研究方法を見つける能力のことだ.これは,ビジョナリー(先見の明がある人)が有している能力である.
 ある分野に「時間的注意能力」の高い研究者が存在していれば,その分野の将来の発展は確約されたと言って良い.ただし,この能力を初期段階(多くのメンバが重要性に気づく前段階)で評価するのは至難の業だ.一般にビジョナリーの発言は難解なことが多く,ビジョナリーが提唱するビジョンが分野のメンバに理解されないことも多い.ビジョナリーによって選択された研究対象や研究方法が,結果として研究分野を発展させるような画期的なものであった場合,「オリジナリティが高い」研究(者)である(あった)と言われるが,ほとんどの場合,画期的だったかどうかはやってみないと分からない.
 橋田氏は認知科学のビジョナリーである.以下では,これを証明するためのエビデンスを橋田氏が実施した(実施中)の研究からみていこう.

2. パーソナルデータと認知科学
 本稿執筆者の一人(開)は,現在,橋田氏と共同研究を推進中である.開の主な研究テーマは発達認知科学である.人間の認知・学習・行動の発達的プロセスとメカニズムを乳幼児や学童・学生を対象とした実証的研究から解明することを目標としている.橋田氏の専門とはまったく接点が無いようにみえる.ところが,橋田氏のアイデアが発達認知科学の研究にブレークスルーをもたらすと筆者は確信している.
 現在,発達認知科学研究において主流となっている方法は,研究室に乳幼児・学童や養育者を招き入れ,統制された実験室環境で行われる実証(仮説検証)型の横断的研究である.横断的研究は(協力者さえ確保できれば)比較的短期間で実施・完遂することが可能であるが,「発達プロセス」や「個人差」について言明することは困難である.したがって,個々の子ども(と養育者)の協力を得て縦断的に発達過程を調査する研究手法(含むコホート研究)が,発達認知科学の諸問題(特に発達プロセスに関する問題)を解決する上で重要である.しかし,意義ある知見を産出できるほど詳細なコホート研究を実施するには人的・金銭的・時間的なコストが大きい.日本国内では,質問紙ベースのコホート研究がいくつか実施されているが,一般市民の関心事に応えるような研究事例は少なく,かつ,世界的に注目されるような研究成果も出ていない.従来型のコホート研究は,国や自治体・研究組織主導で実施されることが殆どで,研究参加者はボランティアでの参加となり,長期間に渡る調査の場合研究協力者の半数以上が離脱してしまう.また,コホート研究で扱われるデータ項目は調査協力者の負担を考慮して必要最小限の簡易的・限定的なものにならざるを得ない.従って,発達プロセスにおける因果関係に踏み込んだ議論をすることは困難である.
 橋田氏は,ここ数年パーソナルデータを分散管理し,個人の利益を最大化するためのパーソナルAIエージェントについて研究している(パーソナルデータの分散管理に関しては,橋田氏による論文,橋田(2013) が非常に分かりやすい).実は,橋田氏が提唱するパーソナルデータの分散管理は,横断的に行われる実験室実験と長期的に行われる縦断研究を連結し,発達認知科学の諸問題を解決するための糸口を見つけ出す上で非常に重要な役割を演じる.ここでは,詳細について論じることはしないが,実験室実験で取得される詳細なデータと長期的に取得されるデータを,実験協力者毎に「名寄せ」することで,養育環境と個人差を関連づけて分析することが可能となる.このようなアイデアに基づいて我々はまさに「画期的」かもしれない認知科学研究をスタートしたばかりである.

3. 自然言語処理と制約
 橋田氏はもともと自然言語処理分野で多くの業績を重ねてきている.ここでは,その例を簡単に紹介する.最も代表的なものは,制約に基づく自然言語処理に関する研究である.
 彼はまず,情報の部分性(知能の限定合理性)に基づいて,制約指向の認知モデルを提案した.制約指向の利点は入力と出力を区別しないことである.これに関する論文で認知科学会優秀論文賞を受賞している.これは,近年の深層学習とも関連性が高く,最近は,ニューラルネットワークによる制約処理を研究している.一般に,ニューラルネットワークは連立方程式であり,通常の層状ネットワークは陽関数を順次計算することにより入力から出力を求めるが,ITI(IsoTropic Inference)という手法ではニュートン法と同様のやり方で連立方程式を解くことにより入出力の区別がない情報処理を行うことができる.
 一方で,自然言語処理の実践的な研究も行っている.1995 年には,DiaLeague と呼ばれる自然言語対話システムのコンテストを千葉大の伝康晴氏と本稿執筆者の一人(長尾)と共同で開催した.これは,対話システムを総合的かつ客観的に評価することを目的に,何らかの課題を,複数の対話システム間の対話によって達成させるものである.対話能力を正しく評価するには,その課題は,相互作用主導的(interaction-oriented)かつ協調誘導的(cooperationinducing)かつ開放的(open)でなくてはならないとした.相互作用主導的とは,システム自身が単独で解決できる課題ではなく,他者から情報を得ることで初めて解決できるような課題であるということで,協調誘導的とは,その相互作用を協調的に行った方が結果が良くなるということで,開放的であるとは,処理すべき情報の範囲が開かれており,狭く限定できないということである.
 具体的には,経路課題というものを設定した.これは,2 名の対話参加者がそれぞれ「一部の情報が欠落した」経路図(欠落した部分を補完すると,両者の経路図は同じものになる)を持っており,両者は情報が欠落していることを知っていて,相手から情報を引き出すことでそれを補おうとし,両者は「ある地点から別の地点への最短経路」を見つけようとする,というものである.
 また,1997 年からGDA(global document annotation)という言語構造に関するメタデータ仕様を提唱し,マルチメディアコンテンツ規格であるMPEG-7のLinguistic DS(description scheme)に採用されている.
 その後,このGDA の発展形として,セマンティックオーサリングというグラフ構造に基づく文書作成手法を提案し,普及を図っている.セマンティックオーサリングで作るグラフ文書は概念地図(conceptmapping)の一種で,任意のテキスト文書の内容を表現可能である.概念地図を作ることで批判的思考力が高まることを確認した上で,共同セマンティックオーサリングの方がテキスト文書の共同作成より生産性が高いことを示した.今後,論理的思考法のトレーニングとして,中学や高校でのグループディスカッションの議事録を共同セマンティックオーサリングで作成することで,生徒の考える力が飛躍的に向上すると期待される.

4. まとめ
 以上,ビジョナリーとしての橋田氏を紹介した.橋田氏に関して残念なことは,いわゆる「弟子」に相当する研究者が少ないことだ.長い間研究所(電総研,産総研)に勤務されていた橋田氏は,自分の思想や研究スタイルを直に教える時間が少なかったのかもしれない.また,ビジョナリーが自分のビジョンを自分自身で実現しまうこともあり得るが,橋田氏の優れたビジョンは必ずや認知科学会の会員にも伝播し,5 年後10 年後に「画期的」であったと言われるに違いない.また,セマンティックオーサリングに代表される彼の実践的アプローチによって,少しずつではあるがじわじわと人間の潜在能力を拡張してくれるものと信じている.

文 献
引用文献
橋田浩一(2013). 分散PDS による個人データの自己管理 人工知能, 28 (6), 872-878. https://doi.org/10.11517/jjsai.28.6_872

主要業績
Hasida, K., & Ishizaki, S. (1987). Dependency propagation:A unified theory of sentence comprehension and generation.Proceedings of the 10th International Joint Conference on Artificial Intelligence, 664-670.
橋田浩一(1989). 制約と言語コンピュータソフトウェア,6 (4), 334-347. https://doi.org/10.11309/jssst.6.4_334
Hasida, K., Nagao, K., & Miyata, T. (1993). Joint utterance:Intrasentential speaker/hearer switch as an emergent phenomenon. Proceedings of the 13th International Joint Conference on Artificial Intelligence, 1193-1199.
伊藤正男・安西祐一郎・川人光男・市川伸一・中島秀之・橋田浩一(編) (1994-1995). 岩波講座認知科学(全9巻).  岩波書店
橋田浩一・松原仁(1994). 知能の設計原理に関する試論:部分性・制約・フレーム問題. 日本認知科学会(編)認知科学の発展第7 巻(pp. 159-201) 講談社
Hasida, K. (1994). Dynamics of symbol systems. New Generation Computing, 12 (3), 285-310.
Hasida, K., Nagao, K., & Miyata, T. (1995). A game-theoretic account of collaboration in communication. Proceedings of the 1st International Conference on Multi-Agent Systems, 140-147.
Hasida, K. Hobbs, J. R., &Kameyama, M. (1996). Optimality in communication games. Proceedings of the 2nd International Conference on Multi-Agent Systems, 438.
大津由紀雄・郡司隆男・田窪行則・長尾真・橋田浩一・益岡隆志・松本裕治(編) (1997-1999). 岩波講座言語の科学(全10 巻) 岩波書店
Kamimaeda, N., Izumi, N., & Hasida, K. (2007). Evaluation of participants’ contributions in knowledge creation based on semantic authoring. The Learning Organization, 14 (3), 263-280. https://doi.org/10.1108/09696470710739426
Shiramatsu, S., Komatani, K., Hasida, K., Ogata, T., Okuno, H. G. (2008). A game-theoretic model of referential coherence and its empirical verification using large Japanese and English corpora. ACM Transactions on Speech and Language Processing (ACM-TSLP), 5 (3), Article 6. https://doi.org/10.1145/1410358.1410360
橋田浩一(2014) 分散PDS と集めないビッグデータ 人工知能学会誌, 29 (6), 614-621. https://doi.org/10.11517/jjsai.29.6_614
橋田浩一(2015) 集めないビッグデータ:情報の分散管理による個人の尊厳と公共の福祉. 社会情報学, 3 (3),87-98. https://doi.org/10.14836/ssi.3.3_87
橋田浩一・嶋田総太郎・今井むつみ(2016). 仮説検証サイクルと記号接地認知科学, 23 (1), 65-73. https://doi.org/10.11225/jcss.23.65
橋田浩一(2020). パーソナルデータの分散管理による価値の最大化計測と制御, 59 (9), 653-658. https://doi.org/10.11499/sicejl.59.653

(長尾確・開一夫 記)