片桐恭弘氏は,1981年に東京大学大学院工学系研究科博士課程情報工学専攻修了後,日本電信電話公社武蔵野電気通信研究所研究員となり,NTT基礎研究所主任研究員・主幹研究員を経て,1995年にATR知能映像通信研究所に研究室長として出向された.その後,ATRメディア情報科学研究所長を経て,2005年に公立はこだて未来大学教授に就任し,2016年からは同大学の学長を務められている.また,2007~2008年には,会長として本学会に尽くされた.
片桐氏はATR知能映像通信研究所における筆者の上司であり,互いに所属する機関が異なるようになった後も,二十数年にわたって,筆者と共同研究を行っている.本稿では,筆者の立場から把握できるかぎりで,片桐氏の数多い研究業績を,俯瞰的に紹介してみたい.
片桐氏の研究分野は,人工知能,自然言語意味論,会話インタラクションと幅広く,大学院時代に専攻された情報工学はもちろん,哲学,論理学,言語学,社会学の知識を縦横に利用して研究を展開されてきた.その中で,片桐氏の関心の中心は,一貫して次のことにあるように思う.
個々の知的エージェントが,その知的資源にシビアな限界をもちながら,環境や他のエージェントとのインタラクションの中で,その限界を超えて個人的・共同的な課題を達成するメカニズム,あるいは,その意味でのエージェントの賢さ.以下,この観点から,主要な論文に絞って片桐氏の研究を通観してみよう.
1. 人工知能
片桐氏の人工知能分野での研究の一つであるKatagiri(1996) は,上記の関心を明確に示している.この論文では,行動(action)と運動(movement)に関する多分に哲学的な区別を利用して,状況に埋め込まれたエージェントの行動とその結果を数学的に跡づけるモデルを提示している.
そこでは,個々のエージェントのプログラムが,環境に直接アクセスすることなくエージェントの内的な情報状態に対して実行されるために,エージェントの知的資源がシビアに制限される状態が作られる.しかし,そうした中でも,環境や他のエージェントの存在を想定し,それに働きかける情報志向の行動をエージェントが取ることによって,環境を変化させ,目的を達成することが可能であることが証明される.
片桐氏のこの研究は,環境や他のエージェントと切り離されて独立にプログラムを実行する「状況に埋め込まれていない」エージェントを想定する当時の人工知能研究や,状況に埋め込まれたエージェントの概念の重要性を認めつつも,数学的に厳密なモデルを提示するに至っていなかった認知科学研究の中で,きわめて先駆的であったと言えよう.
片桐氏が,もっとも明確に人工知能の研究に携わったのは,大学院時代とNTT時代である.その時代の片桐氏の活動を知ることのできる文献に,斎藤他(2020) があり,そこでは,日本の人工知能研究の一つの起源とも言える「AIUEO」という勉強会の活動を,片桐氏を含む当時の主要メンバーが述懐している.なんと勉強会の正式名は,“Artificial Intelligence Ultra-Eccentric Organization” といったらしく,そのメンバーには,当学会の古めの会員にはおなじみの,斎藤康己氏,中島秀之氏,白井英俊氏,橋田浩一氏らが含まれ,人工知能の開発という目標に向かって,それに必要な知識は何でも吸収し,何でも議論する,という学際的なバイタリティに溢れていたようである.そのバイタリティは,その後,日本認知科学会が発足したあと,片桐氏をはじめとするメンバーによって当学会にそのまま持ち込まれ,大会などでの議論を大いに活発化させた.こうした形で片桐氏が当学会に及ぼした影響はきわめて大きい.
2. 自然言語意味論
片桐氏の自然言語意味論に対する関心も,やはり,状況に埋め込まれたエージェントの知的限界とそれを乗り越える賢さに対する関心を起源とすると思われる.人間が,他の人間に働きかける主たる手段は,自然言語を用いた発話である.片桐氏は,自然言語意味論が蓄積してきた,実際の人間の言語使用のデータや知見に基づいて,他のエージェントとのインタラクションを通じて高度な課題を達成するエージェントの賢さを捉えようとしたと思われる.
実際,この分野での片桐氏の仕事を見ると,当時の自然言語意味論の見地からはマイナーだが,上記の関心からはメジャーな話題を取り上げるものが多い.たとえば,日本語再帰代名詞の「自分」の用法を分析したKatagiri (1991) は,特定の文脈で使われる「自分」の指示対象が,他のエージェントの視点を推論しながら各エージェントの中で形成される視点的表象(perspectival representation)を反映するものであることを指摘する.片桐氏にとって,「自分」の使われ方は,自分も他者もそれぞれの環境の中に埋め込まれ,かつそれを認識した上で,自らの推論に用いる表象を視点相対化して組織化する様子を知る重要なデータであった.
また,日本語のいわゆる「ゼロ」の意味機能を分析したKatagiri (2000) は,状況的に顕在的なオブジェクト(circumstantially salient objects)が誰にとっても顕在的であることを利用して,エージェントが情報のやりとりを効率化することを明らかにしており,ここでもまた,環境や他のエージェントとのインタラクションにおけるエージェントの賢さが,具体的な言語使用のデータからあぶり出されている.さらに,Katagiri (2007) によると,日本語の終助詞「よ」と「ね」は,情報源のありか(話し手もしくは聞き手もしくは第三者)に関する話し手の認識を表示する機能をもつ.一見些細に見えるこの機能は,閉じた情報空間に埋め込まれているはずの話し手と聞き手が,それにもかかわらず相互の合意に至るための対話調整作用(dialogue coordination)の基盤として重要である.
3. 会話インタラクション
片桐氏の言語意味論の研究は,NTT時代の終わり頃にあたる.その後,ATRに出向するあたりから,氏の研究は,より直接的にエージェント間のインタラクションを対象とするようになる.関心の領域は,言語表現から,準言語・非言語的表現へ,研究に用いるデータも言語的直観から実験・観察データへと移っていく.
たとえば,Koiso et al. (1998) では,対話における参加者の発話速度に注目し,情報の切れ目ではそれが減速し,切れ目のないところでは加速を続ける傾向があることを観察データから明らかにしている.このパターンは,発話者が交代する場合でも維持されており,発話速度の変化が,対話でやりとりされる情報の切れ目のシグナルとして対話参加者の相互理解に寄与する.また,Shimojima et al. (2002) では,観察データと実験データを組み合わせ,対話におけるいわゆる「反復応答(echoic response)」に演示(display)の機能があることを明らかにした.反復応答が特定の時間的・韻律的特徴をもつときにこの機能は働き,エージェントは,提示された情報を承認するのでも,修正を要求するのでもなく,その扱いを相手に託すことによって,協調的・効率的に情報の共有を進めることができる.
発話の速度,韻律,時間特性などの準言語的表現を扱ったこうした研究に対し,非言語的表現を扱った例として,グラフィックを用いた推論を実験的に調査したShimojima & Katagiri (2013) がある.この研究では,エージェントは,グラフィックの描かれた平面に適切に注意を配置することにより,平面の空間的特性を利用した効率的な推論を行うことが確かめられ,グラフィックという外部環境がエージェントの知的資源の限界を拡張する具体的な様態の一つが明らかになった.馬田他(2008) では,地図を用いた対話において,場所や物体の指示が地図上の位置や記号を指示することによって間接的に行われる現象を見いだし,エージェントが,地図という環境的要素を利用して情報のやりとりの効率と正確性を高めていることが分かった.
片桐氏の研究の対象は,与えられたグラフィックの利用のみならず,さらにグラフィックの産出のパターンにも及び,対話者間の直接のインタラクションが,対話において産出される描画の種類に与える影響を調べる実験も行っている(Healey et al., 2002).その結果,直接のインタラクションが可能な条件では,抽象的な描画の産出が頻繁に見られ,対話者が直接のインタラクションの機会を利用して,自分たちの用いる抽象的な描画の読解の規則を調整していることが分かった.また,Fay et al. (2018) においては,西欧と日本に住む話者にグラフィックのみを用いた対話を行わせ,文化圏の違いを超えたインタラクションの共通のパターンを見いだしている.とくに,対話者がインタラクションの回数を重ねるにつれ,産出する描画をより単純・統一的なものに変化させることが観察され,エージェントが課題の達成のために効果的な記号システムをその場で創出する際の普遍的とも言える方略が浮き彫りとなった.
ATR時代の終わり頃から,はこだて未来大への移籍を経て現在にいたる時期に,片桐氏の関心はますます野心的なものになってきている.そこには,次のようなテーマが含まれる.
・対話におけるジェスチャと視線の協調(坊農・片桐, 2005)
・対話者の情報共有方略に対する文化的規範の影響(片桐, 2005)
・対話者の発話の韻律的同期と対話者相互の社会的受容の関係(Suzuki & Katagiri, 2007)
・三人以上が参加する多人数インタラクションにおける非言語シグナルの機能(Katagiri et al., 2008)
・エージェント間の関心の調整と信頼の構築(片桐他, 2015)
4. 広大な領野のただ中で
過去に部下として,また,共同研究者として片桐氏と接する中で,なぜいつもあんなに難しいことばかりに興味を持たれるのか,不思議に思うことがよくあった.ある研究テーマについて成果を出し,研究方法も確立しているとき,そのテーマで研究を続ければ業績も増やしやすいにもかかわらず,わりとすぐに,もっと難しいテーマや,もっと捉えにくい現象に関心を広げられるのである.しかし,いまこのように片桐氏の研究を俯瞰し,その関心の中心が本稿の最初に述べたようなものであったことを考えると,その謎が解けたような気がする.片桐氏は,私が習慣づけられるているよりも,はるかに大きなスケールで研究の対象を捉え,それを追いかけているのであり,すでに分かったことに長く留まる暇などないのではないか.
「知的エージェントが,その知的資源にシビアな限界をもちながら,環境や他のエージェントとのインタラクションの中で,その限界を超えて課題を達成するメカニズム,あるいは,そうしたエージェントの賢さ」は,認知科学においても,発展著しい最近の人工知能技術においても,いまだ入り口に立ったか立たないかの広大な領野である.片桐氏の研究は,しかし,その更新され続けるテーマと方法によって,その領野の中心に向けて分け入っている.そして,片桐氏がスーパバイザーとして育ててきた数多くの研究者が,葉脈のようになって,氏の引いた道をさらに四方に延ばして開拓を推し進めている.筆者にはそのように見える.
坊農真弓・片桐恭弘(2005). 対面コミュニケーションにおける相互行為的視点:ジェスチャー・視線・発話の協調. 社会言語科学, 7 (2), 3-13. https://doi.org/10.19024/jajls.7.2_3
Fay, N., Walker, B., Swoboda, N., Umata, I., Fukaya, T., Katagiri, Y., & Garrod, S. (2018). Universal principles of human communication: Preliminary evidence from across-cultural communication game. Cognitive Science, 42 (7), 2397-2413. https://doi.org/10.1111/cogs.12664
Healey, P. G. T., Swoboda, N., Umata, I., & Katagiri,Y. (2002). Graphical representation in graphical dialogue. International Journal of Human-Computer Studies, 57 (4), 375-395. https://doi.org/10.1006/ijhc.2002.1022
Katagiri, Y. (1991). Perspectivity and the Japanese reflexive 'Zibun'. In J. Barwise, J. M. Gawron, G. Plotkin, & S.Tutiya (Eds.), Situation theory and its applications (Vol.2, pp. 425-447). CSLI Publications.
Katagiri, Y. (1996). A distributed system model for actions of situated agents. In J. Seligman, & D.Westerståhl (Eds.),-Logic, language and computation (Vol. 1, pp. 317-322). CSLI Publications.
Katagiri, Y. (2000). An implicit argument analysis of Japanese zeros. In L. Cavedon, P. Blackburn, N. Braisby,& A. Shimojima (Eds.), Logic, language and computation (Vol. 3, pp. 425-447). CSLI Publications.
片桐恭弘(2005). コミュニケーション行動における規範と共有片桐恭弘・片岡邦好(編) 講座社会言語科学5:社会・行動システム(pp. 202-219) ひつじ書房
Katagiri, Y. (2007). Dialogue functions of Japanese sentence final particles ‘Yo’ and ‘Ne’. Journal of Pragmatics, 39 (7), 1313-1323. https://doi.org/10.1016/j.pragma .2007.02.013
Katagiri, Y., Den, Y., Ishizaki, M., Matsusaka, Y., Enomoto, M., & Takanashi, K. (2008). Implicit proposal filtering in multi-party consensus-building conversations. Proceedings of the 9th SIGdial Workshop on Discourse and Dialogue, 100-103.
片桐恭弘・石崎雅人・伝康晴・高梨克也・榎本美香・岡田将吾 (2015). 会話コミュニケーションによる相互信 頼感形成の共関心モデル認知科学, 22 (1), 97-109. https://doi.org/10.11225/jcss.22.97
Koiso, H., Shimojima, A., & Katagiri, Y. (1998). Collaborative signaling of informational structures by dynamic speech rate. Language and Speech, 41 (3-4), 323-350. https://doi.org/10.1177/002383099804100405
斉藤康己・中島秀之・片桐恭弘・松原仁 (2020). AIUEOのはじまりからおわりまで人工知能学会誌, 35 (2), 257-261. https://doi.org/10.11517/jjsai.35.2_257
Shimojima, A., & Katagiri, Y. (2013). An eye-tracking study of exploitations of spatial constraints in diagrammatic reasoning. Cognitive Science, 37 (2), 211-254. https://doi.org/10.1111/cogs.12026
Shimojima, A., Katagiri, Y., Koiso, H., & Swerts, M. (2002). Informational and dialogue-coordinating functions of prosodic features of Japanese echoic responses. Speech Communication, 36 (1-2), 113-132. https://doi.org/10. 1016/S0167-6393(01)00029-2
Suzuki, N., & Katagiri, Y. (2007). Prosodic alignment in human-computer interaction. Connection Science, 19 (2), 131-141. https://doi.org/10.1080/09540090701369125
馬田一郎・下嶋篤・片桐恭弘・井上直巳(2008). 視覚的表象と言語の直列的統合について認知科学, 15 (4), 573-587. https://doi.org/10.11225/jcss.15.573
(下嶋 篤 記)