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日本認知科学会

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松沢 哲郎

2019年フェロー.
京都大学高等研究院特別教授・副院長
京都大学霊長類研究所兼任教授

 このたび,松沢哲郎先生が日本認知科学会フェローを受賞されるとの報を受けた.学生時代に先生の指導を受け,また共同研究者として30年ほどともにチンパンジーの研究を行ってきた者として,とても誇らしく思う.また,先生の紹介文を執筆させていただくことを光栄に思う.
 松沢先生は,いつも「京都大学山岳部出身です」と言っておられるが,本当は,1974年に京都大学文学部を卒業されている.紛争のあおりを受けて東大を受験できなかった世代だ.文学部では平野俊二先生のもとラットを対象に生理心理学の研究などに従事していたと聞く.たしか,卒業研究は人間を対象とした視覚心理物理学で,その成果は「心理学研究」誌に掲載されていたように記憶している(松沢, 1977).その後,大学院在学中に京都大学霊長類研究所(霊長研)心理研究部門に助手の職を得て,それ以来2016年までの39年間,霊長研で研究教育にたずさわってこられた.
 1977年,当時の室伏靖子先生,浅野俊夫先生,小嶋祥三先生,そして松沢先生からなる研究チームに,アイ,アキラ,マリという3人のチンパンジーがやってきた.たぶん,西アフリカの地で母親を殺され,捕獲されてきたのだろう.このチンパンジーたち,とくにアイとの出会いが松沢先生のその後の研究キャリアを大きく変えたといってよいかもしれない.1960年代後半から70年代前半にかけてアメリカでは大型類人猿に手話や視覚性記号言語を教える試みが数多くなされていた.その流れを日本でも,ということで,アイたちに人工言語を教える試みがスタートしたのである.後年「アイ・プロジェクト」と呼ばれることになるこのプロジェクトは,チンパンジーに「語」や「文」を教えるというだけでなく,彼らの持つ認知機能をまるっと調べ上げようという流れに徐々にシフトしていく.このムーブメントのど真ん中にいたのが松沢先生だった.80年代に先生が行ってきたさまざまな「おもしろい」研究は,後に『チンパンジーから見た世界』という本にまとめられている(松沢, 1991).この本は「認知科学叢書」シリーズの1冊であり,今は亡き波多野誼余夫先生が「道案内」と称する序文を書かれていた.このシリーズは私にとって非常に印象的なものであった.当時の認知科学の激しくも楽しそうな脈動が今でもそのまま伝わってくる.執筆陣を見てみると多くの方々が本学会のフェローになられている.その意味でも現在の日本の認知科学の土台を築いたシリーズだったのだろうと思う.
 その中の1冊を占める『見た世界』はチンパンジーでの認知研究の当時の時点での集大成であっただけでなく,心の進化を実証しようとする「比較認知科学」の宣言の書でもあった.動物を対象とした心理学研究は条件づけを基礎とした連合論やスキナー流の行動分析学が1970年代までは主流であった.しかし,人間の心理学で巻き起こった認知革命は,1970年代の中ごろから動物の研究にも波及しはじめる.当時は「動物認知(animal cognition)」研究などといわれていた.いろいろなとらえ方はあるだろうが,私は,動物の認知的行動を認知科学的,認知心理学的に解き明かしていこうという潮流ととらえていた.そこに「比較」という言葉がつけ加わった.ここでいう「比較」とは単に現生種を横並びで比較しようという意味ではない.そうではなくて,「進化」の視点を導入しようということだった.ゲノムレベルでみてヒトに最も近縁であるチンパンジーを対象に研究するということは,おのずとヒトの認知の進化的起源を明らかにようとする試みになる.先述の大型類人猿を対象とした人工言語研究もこのような目的があったはずだが,いろいろな意味でこの研究の流れは挫折した.しかしながら,チンパンジーの認知機能を全体として調べ上げてヒトや他の種と比較し,ヒトの知性のユニークさを描き出すという試み,つまり比較認知科学は生き残った.そして,『見た世界』が出た90年代に,動物の認知研究,特に霊長類の認知研究は世界同時多発的に比較認知科学へとシフトしていったのである.松沢先生はその先頭を常に走っていた.
 松沢先生の研究者としての特徴を一つ挙げるとすると,「初登頂主義者」という言葉が思い浮かぶ.これは,先生が山暮らしの中で学び身につけていったものだろう.そういえば,定年を迎えた際の記念講演も確か半分くらいは山の話だった.誰も登ったことのない山を登る.これまで誰も試みたことのない方法で山を登る.これらを研究という営為に翻訳すると,誰もしたことのない研究を,誰も考えもしない方法で実施する,ということだろう.私には,先生がおこなった研究のうち,いくつか好きな研究がある.その一つが「語順の自発的な生成」だ(Matsuzawa, 1985).アメリカのヤーキス研究所で行われていた人工言語研究では,チンパンジーにヒトが用意した人工文法を訓練し,それを用いて機械や人間,さらにはチンパンジー同士でとコミュニケーションをとることができるかという研究が行われていた.それに対し,先生は物の属性(名前,色,個数)を示す記号を訓練したのち,チンパンジーのアイがこれらの記号をどのように「自発的」に組み合わせて事象を記述するのかをしらべた.数-色--もの(「3つの赤い積木」)であろうが,色-もの-数(「赤い積木が3つ」)であろうがかまわない.そのように自由な選択にまかせていると,選択傾向があるパターンに収斂していくことを発見したのだ.そのパターンとは,「数を最後に答える」というものだった.これは,個数の識別が他の属性内の識別に比べて困難だからというような理由ではなかった(たとえば,個数を1に固定してもこの傾向が維持された).もしかすると先生はこの課題で,チンパンジーによる世界の認識の仕方の一端を切り出すことに成功したのかもしれない.ほかにも「面白い」研究がある.チンパンジーの前に色や形の異なるものをいくつか用意して手元にある2つのお皿に入れ分けてもらうという研究だ(Matsuzawa, 1990).この課題にも「正解」はない.どんな形であれ,すべてのものをお皿に入れたらごほうびがもらえる.この時の入れ分けのパターンに何か法則性がないか.ある属性(色)にもとづいて入れ分ける(赤と緑),あるいは2つのお皿に対称的に入れ分ける.この研究は彼らの持つ自発的な分類様式を必要最小限の介入によって明らかにしようとしたものだ.
 上にあげた2つの研究例は,いわば「弁別学習訓練」からの決別といってよいのかもしれない.ある認知的な行動を分化強化によって「作り上げる」のではなく,彼らが本来持っているであろう認知の様式をいかにして「引き出す」か,ということなのだ.この2つのアプローチは,松沢先生の中に今も並立しているようではある.たとえば,チンパンジーにアラビア数字の順序を教える研究は前者に相当する.これは今も続いていて,桁上がりの研究に展開している.後者の引き出すという研究は,道具使用の社会的伝播などの実験的観察や,感覚性強化(これも日本では松沢先生が言い出しっぺである(松沢, 1981))やアイトラッカーを用いた研究として今も私たちの研究室では連綿と受け継がれている.
 方法論的な斬新さは他にもある.彼はラボと野外調査を極めて高いレベルで統合した(Matsuzawa, 2006).これは,チンパンジーの比較認知科学研究が「霊長類学」の一翼を担っていたことや,彼が山男だったことなどと無関係ではないだろう.もしかするとただただアフリカに行きたかっただけなのかもしれないが.でもそれのみが動機ならば,今日にいたるまで30年以上にわたって毎年調査に行くということはないだろう (Matsuzawa et al., 2011).やはり彼の中には実験と観察が不可分なのだ.フィールドワークの中での最大の発見といってよいのは,道具使用にかかわる学習過程に関する研究だろう.チンパンジーはその自然生息域においてさまざまな道具使用を行う.この道具使用は観察などを通じた社会的な学習によって世代から世代へと受け継がれていく.人間における「文化」といってよいものだ.しかし,その学習の過程がヒトとチンパンジーでは大きく異なることを見出した.ヒトでは,養育者がその子どもの手を取ったり,わざとゆっくり動作したりして,積極的に教えようとする.しかし,チンパンジーはそんなことはしない.親たちはただ黙々と道具使用を行い,子どもたちはその行動を至近距離で観察し,自分でも試してみる.まるで,職人の親方と弟子のような関係だ.教えない教育,あるいは見習う学習とでもいうべきか.松沢先生はこのような社会的学習のあり方を「徒弟制に基づく教育」と名づけた(Matsuzawa et al., 2001).
 先に,松沢先生は「初登頂主義者」だと述べた.もう一つ彼を表現する言葉があるとすれば,それは「種蒔く人」だろう.新しい発見をし,新しい発想を提示する.しかし,いい意味でそれを深く追究しすぎるということをしない.「重箱の隅」をつつき,「銅」を「鉄」に置き換えてさらに調べる.そんなことよりもさらに前に,右に,左に,時には斜め上方に進路を取って,さっそうと進んでいく.残された私たちには,種が蒔かれた大地が残される.自分の研究活動を振り返ってみると,この大地を耕し,種を育て,収穫する,ということをもっぱら行ってきたように思う.先生が蒔かれた種をいくつか挙げておこう.動物を研究することと彼らの暮らしに対して責任を持つことを不可分としてとらえ,生育環境の保全を推進し(ギニアでの「緑の回廊」プロジェクト(Matsuzawa et al., 2011),飼育環境の改善に「環境エンリッチメント」と「心理学的幸福」という考えを明確に導入した(松沢, 1996).数の認識と数字系列の記憶におけるチンパンジーの特異な記憶力の発見(Kawai & Matsuzawa, 2000),チンパンジーの認知発達研究における参与観察法の導入 (Matsuzawa, 2006),四肢麻痺のチンパンジーの行動に着想を得た「想像する力」の提唱(松沢, 2011),などなどである.さらに最近は「ウマ学」の創始をめざし(松沢, 2019),無重力環境下での心の働きを探る「宇宙認知科学」にも手を染めている(Matsuzawa, 2017).こうした着想力の鋭さと初登頂主義,そして肥沃な大地の下で後進がすくすくと育ってきたことなどが相まって,特別推進研究を6期連続で採択されたのだろう.
 松沢先生は,常々,研究と教育と社会への発信の重要性を強調されてきた.近年は,研究のみならず,教育面においても京都大学リーディング大学院「霊長類学・ワイルドライフサイエンス」の代表として,生物多様性の保全などを,単にそれを学問として追究するだけでなく,眼に見えるかたちでの貢献を担うオンリーワンの人材育成を進めてきた.さらに,2014年からは公益財団法人日本モンキーセンター所長に就任し,このセンターをアウトリーチの場として盛り立てるべく奮闘されている.
 霊長類学から認知科学まで,ラボからフィールドまで,研究から教育・アウトリーチまで,そして山・海・空・宇宙へ.こんなに多次元な人物を師に持つと,自らのロールモデルとしてはあまりに巨大すぎて立ち尽くしてしまう.松沢先生が築き上げ育ててきたもののうちの少しでもいいから,展開・発展させ,後進にさらなる道を示すことが,先生の薫陶を受けてきた私たちにできる唯一のことなのかもしれない.
 松沢先生,あらためて,日本認知科学会フェロー受賞おめでとうございます.

本稿で紹介した業績

松沢哲郎(1977). 短時間提示されたランドルト環の知覚における両眼加重.心理学研究, 48, 112-116.
松沢哲郎(1981). 感覚性強化:強化刺激の多様性.心理学評論, 24, 220-251.
Matsuzawa, T. (1985). Use of numbers by a chimpanzee Nature, 315, 57-59.
Matsuzawa, T. (1990). Spontaneous sorting in human and chimpanzee. In S. T. Parker & K. R. Gibson (Eds.), 'Language' and intelligence in monkeys and apes: Comparative developmental perspectives (pp. 451-468), Cambridge University Press.
松沢哲郎(1991). 『チンパンジーから見た世界』.東京大学出版会.
松沢哲郎(1996). 心理学的幸福: 動物福祉の新たな視点を考える.動物心理学研究, 46, 31-33.
Matsuzawa, T., Biro, D., Humle, T., InoueNakamura, N., Tonooka, R., & Yamakoshi, G. (2000). Emergence of culture in wild chimpanzees: Education by master-apprenticeship. In T. Matsuzawa (Ed.), Primate origins of human cognition and behavior (pp. 557-574), Springer, Tokyo.
Kawai, N., & Matsuzawa, T. (2001). Numerical memory span in a chimpanzee. Nature, 403, 39-40.
Matsuzawa, T. (2006). Sociocognitive development in chimpanzees: a synthesis of laboratory work and fieldwork. In T. Matsuzawa, M. Tomonaga, & M. Tanaka (Eds.), Cognitive development in chimpanzees (pp. 3-33), Springer, Tokyo.
Matsuzawa, T., Humle, T., & Sugiyama, Y. (Eds.) (2011). The chimpanzees of Bossou and Nimba. Springer, Tokyo.
Matsuzawa, T., Ohashi, G., Humle, T., Granier, N., Kourouma, M., & Soumah, A. G. (2011). Green corridor project: Planting trees in the savanna between Bossou and Nimba. In T. Matsuzawa, Humle, T., & Sugiyama, Y. (Eds.), The chimpanzees of Bossou and Nimba (pp. 361-370), Springer, Tokyo.
松沢哲郎 (2011). 『想像するちから:チンパンジーが教えてくれた人間の心』.岩波書店.
Matsuzawa, T. (2017). Parabolic flight: experiencing zero gravity to envisage the future of human evolution. Primates, 59, 1-3.
松沢哲郎(編)(2019). 特集:ウマの世界ー野生のくらしと人との関わり. 生物の科学 遺伝, 73(3).

(友永 雅己 記)