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日本認知科学会

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鈴木宏昭

2018年フェロー.
青山学院大学教育人間科学部教育学科教授

鈴木宏昭先生は日本の大学院で認知科学を学んだ第一世代の一人である.人間の思考や学習に興味があった先生にとって,認知過程をブラックボックス化し,ラット実験を繰り返す行動主義心理学は,到底満足できるものではなかった.そんな先生が,当時わが国で立ち上がろうとしていた認知心理学に出会い,「これしかない」と思ってのめり込むのは半ば当然の流れであった.
 1981年,東京大学教育学研究科の佐伯胖研究室に入り,認知科学の洗礼を受ける.第一世代であるから,研究を指導してくれる先輩はいなかった.むしろ様々なバックグラウンドを持つ後輩たちと一緒に勉強会,研究発表会,そして飲み会を繰り返しながら,慣れない概念や専門用語と格闘した.日中は朝から研究し,輪読会に出,夜は酒を飲みながら議論し,家に帰ってからまた論文を読むといった毎日だった.
 研究者としての鈴木先生を語る上で,指導教官の佐伯胖氏の影響は計り知れない.先生は文字通り佐伯氏に憧れ,あのようになりたいと思い,一時は話し方まで似てきたという.鈴木先生の教育論を形作ったのはこの時期の経験だろう.教育とは学生に知識を注入することではなく,何よりも新しく魅力的な世界を垣間見せることであり,教育者の役割はその媒介をすることなのである.
 鈴木研究室に所属するメンバーは,当時のエピソードをたくさん聞かされる.佐伯氏の講義や研究ビジョンがどれだけ魅力的であったか.つまらない研究を持っていったときにいかにひどい扱いを受けたか.その逆に,おもしろい研究を持っていくと,どれだけ激賞され,激励されたか.
 ここで使われる「つまらない」「おもしろい」という形容詞は独特のニュアンスを帯びたものであり,佐伯研究室以来の歴史を背負った一種の価値規範になっている.鈴木先生自身の定義によれば,「おもしろさ」は,何らかの参照系を踏まえた上で,その参照系からはうまく説明できないこと(パラドクス)を見出し,これを解決しようとするところに生まれる.以下では,この「おもしろさ」に焦点を当てて,鈴木先生の主な研究業績を紹介していきたい.

1. 教科理解
 佐伯研究室時代の先生の最初の研究テーマは教科理解,特に算数や理科の学習であった.主な成果は『教科理解の認知心理学』(1989年)にコンパクトにまとめられている.鈴木先生を含む「研究室のワルガキ連中」(佐伯氏の序文より)が出版したこのユニークな入門書は,冒頭,研究の時間軸に沿った事実の羅列ではなく,さまざまな研究の基底にある「問い」を明確にし,そうした「問いの流れ」として研究史を記述することを宣言する.このアプローチは,「なぜそうなのか」に対する理解が主体的に構成されない限り,本当に国語や算数がわかったことにはならないのだという,同書の「理解」に対する考え方を端的に示している.
 鈴木先生が担当したのは算数・数学の理解をめぐる第2章である.そこで中心となった問いは「やり方を教えても解けないのはなぜか」であった.それは人間の学習が手続きの単なる暗記過程ではないからであり,人間の問題解決が手続きの単なる実行過程ではないからである.手続きは,意味づけられない限り適切に使えない.そして,手続きの実行以前に,解くべき問題自体が理解されない限り適切な問題解決は望めないのである.
 先生の初期研究には,すでに後年の研究を予告する萌芽がそこかしこに認められる.たとえば,引き算のバグに対する並々ならぬ注目.その後の鈴木先生の研究には,算数の珍回答に始まり,スランプやパズルの行き詰まり,機械音痴,学生の悲惨なレポートなど,様々な「失敗」が登場する.通常は誤差や欠損として処理されるこうした失敗を,その発生メカニズムに立ち返って考察することで,失敗の持つ豊かな意味が明らかになる.鈴木先生にとって,失敗は人間の無能さを表すどころか,むしろ有能さと可能性を表す重要な現象である.
 人間の変化をいくつかの段階に分ける考え方や,各段階に各々の段階を特徴づける一つのモジュールが存在するという考え方も,手厳しく批判されている.一見すると非連続的に見える変化が,実は複数のリソースの相互作用によって漸進的に生み出されているというビジョンは,その後の鈴木先生の研究の通奏低音となるものだ.
 『教科理解の認知心理学』の出版以降,この分野では実に多くの問題スキーマが発見され,数百に及ぶリストが作られるまでになった.しかしその頃には,鈴木先生の関心は別のところに向かっていた.もし問題スキーマが重要なのだとすれば,問題スキーマ自体はどうやって獲得されるのか.もし人がタブララサから学習することはなく,新しい知識とすでに持っている知識とを関連づけながら物事を理解していくのだとすれば,それらの知識は一体どう関連づくのか.こうした問題意識が,先生を類推の研究へと導いていく.

2. 類推
 当時の認知科学は,人間の思考や推論を,内容から独立した形式的なルールの適用として説明することはできないことを明らかにしていた.鈴木先生によれば,人が論理に従わないのは,第一に論理学が仮定する世界と人間が思考する世界がまったく別物であるため,第二に形式的なルールを文字通り適用するのは認知コストが高すぎるためである.
 では,人が論理やルールに基づいて思考しているのではないとしたら,何に基づいて思考しているのか.一つの答えは領域知識であるが,それだけだと新しい知識の学習ができなくなってしまう.そこで注目されたのが類推である.
 類推とは,あることをそれと似た別のことにたとえることによって考える活動である.ちょうど鈴木先生が大学院を出た頃から,世界で「堰を切ったように」類推の論文が発表されるようになった.先生は研究の進展の只中に居合わせ,類推をテーマに学位論文(「類似に基づく思考と学習に関する認知科学的研究」)を書き,博士号(教育学)を授与されている.その間,東京工業大学大学院総合理工学研究科助手を経て,1993年より青山学院大学文学部専任講師となっていた(2019年に同助教授、2002年に同教授.現在の所属は教育人間科学部).
 類推についての研究成果は『類似と思考』(1996年)に詳しい.ゲントナーやホリオークといった同時代の傑出した研究者との内的対話を続けた鈴木先生は,自分でも予想しなかった方向に押し出されるようにして,類推の新しいモデルを提案するに至る.
 準抽象化理論と呼ばれるそのモデルは,具体的な経験そのものでもなく,かといって過度に抽象的なものでもない,中間レベルの抽象化(準抽象化)によって類推を説明しようとする理論であり,独特なカテゴリー論ともなっている.
 鈴木先生は,類推とはたとえるもの(ベース)とたとえられるもの(ターゲット)の写像関係である,という前提自体に疑問符をつきつけた.類推とは異なるものを同一視する不思議な心的メカニズムである.そもそも何かと何かが似ているというためには,2つを対応づける以前に,それらが何において類似しているかを定める「観点」が必要である.つまり,類推はベースとターゲットの2項関係ではなく,それらの同一性を保証する準抽象化を加えた3項関係なのである.
 一連の類推研究には,たえず前提条件を問い直しながら物の見方を転換していく,鈴木先生の思考スタイルがよく表れている.『類似と思考』にも,魅力的なアイデアがいくつも散りばめられている.たとえば,観点やカテゴリー化はどこから来るのかという問い.あるいは,確固とした既有知識と思われるベースですら,実のところは経験したものと未経験のものとの寄せ集めであり,その場で生み出されたものなのではないかという示唆.さらには,演繹が不純化したものが類推なのではなくて,むしろ演繹こそが類推の特殊ケースなのだという指摘などである.

3. 洞察問題解決
 鈴木先生は,自宅の半地下室にこもって学位論文を仕上げたという.上述の通り,それは困難で孤独な作業だった.そして先生が学位論文を提出する頃には,認知科学において類推をめぐる研究は徐々に下火になっていった.通常なら,ここで研究活動が一段落してもおかしくないところだが,先生の場合は違った.1990年代後半から2000年代初頭にかけて,類推研究のデッドロックを乗り越えようと格闘する中で胚胎した問題意識が,複数の研究課題として前景化してくる.
 そのうちの大きな一つが洞察の研究である.きっかけは酒場に置いてあった図形パズルがまったく解けなかったことだそうだ.くやしくて,翌日東急ハンズで同じパズルを買ってきて,それでもなかなか解けなかったが,20分くらいで不意に解けたという.もちろんこれは日常生活上のエピソードにすぎず,その時点において創造的問題解決の一事例として経験されたわけではない.酒場での経験が認知科学にふさわしい研究テーマとなるためには一定の孵化期間を必要とした.
 鈴木先生の研究は,誰でも経験しそうな日常的な事象と,高度な理論的課題とを鮮やかに結びつけたものが多い.具体と抽象の往復は先生の得意とするところである.われわれは,ごくありふれた現象がどれだけ豊かな意味を担うことができるかに驚き,また励まされる.酒場で解けなかった図形パズルは,かくして洞察問題解決の実験課題となり,さらに大きな文脈においては,概念変化(新しい知識の創出)のミニチュアとして位置づけられることになった.
 洞察問題とは,その解決の前後で,存在論レベルの表象変化が生じる問題である.洞察問題を解く際には,同じ失敗を繰り返す,ヒントが与えられてもうまく使えない,突然ひらめいたように解ける,などの特徴が見られる.洞察問題はどれも答えを見てしまえば簡単な問題ばかりで,その難しさは問題自体の複雑さにあるわけではない.
 制約の動的緩和理論(開・鈴木, 1998; 鈴木・開, 2003)は,こうした洞察の特性を説明する理論である.この理論によれば洞察とは,複数の制約が,試行とその評価を通じてダイナミックに調整されることで,確率的に解決がもたらされる過程である.それまでの研究が個々の洞察問題に固有の制約を想定していたのに対し,このモデルでは対象制約,関係制約,ゴール制約という問題解決に共通する3つの制約が設定されている.したがって,洞察以外の創造的問題解決や,おそらくは標準的な問題解決にも適用可能な「一般的な」モデルであるといってよい.
 洞察は問題解決の過程であると同時に生成的な学習過程でもある.一連の実験を通じて先生は,手続き知識の覚え込みとは対極的な,創造と学習の新しい姿を描き出した.創造は進化と同じように,ある種の確率的なランダムさと,それを絞り込む評価の組み合わせによって生み出される(鈴木, 2004).無から何かが生み出されるわけではない.創造の背後には無数の繰り返しや類似,失敗が存在しており,それこそが創造を支えている.
 このように,変化は徐々に起こっているにも関わらず,意識上は突然解決が訪れたように思われるのはなぜだろうか.カギは顕在処理システム(意識)と潜在処理システム(無意識)の相互作用にある(鈴木・福田, 2013).実は制約緩和において主要な役割を果たしているのは潜在処理システムのほうである.潜在処理システムがあらかた仕事を終えたあとに,初めて顕在処理システム(意識)が事態を把握することで,あたかも変化がその瞬間に突然訪れたかのように感じられるのである.巧妙な実験手続きによって無意識の働きを明るみにしたこの研究以降,先生はあらためて言語と意識の役割を問い直すこととなる(鈴木・横山, 2016).

4. ダイナミカル宣言
 さて,洞察の研究と平行して,先生は複数の研究を進めていた.一つは機械音痴の研究である.大学でソフトウェア操作を教えていたこともある先生にとって,優秀な学生が,いくら教えてもなかなかソフトウェアを使いこなせるようにならないのは不思議なことだった.先生はこれを人と道具(コンピュータ)のコミュニケーションの問題としてとらえ直した.機械音痴の独特な行動は,彼が機械の(すなわち設計者の)前提する課題分割プランを共有していないことから生じる(鈴木他, 1998).これを解消するには,機械音痴にも利用可能なメンタルモデルに準拠すればよい.すなわち,エンジニアはあたかも一貫した人格を持った「人」であるかのように反応するソフトウェアを設計すべきであり,ユーザはそのようなものとしてソフトウェアに接し,時間をかけて学習すればよいのである(鈴木・植田, 2003).
 もう一つの研究テーマはアカデミックライティングである.先生はITを活用した協調学習を取り入れながら,どうすれば学生のレポートの質を上げることができるかに取り組んだ(鈴木他, 2007; 鈴木, 2009).ライティング教育のメインテーマは論理的な文章作成である.しかし先生の研究で強調されたのはそれ以外の部分であった.たとえば,文章作成以前に,問題発見(テーマ設定)の重要性と難しさが論じられる.また,良いレポートが論理性の追求よりもむしろ他者との対話から生まれるということが主張される.
 このようにして様々な領域で研究を進める中で,諸研究を通じて本当に言いたかったこと,見たかった知性の姿が,先生にとって徐々にはっきりした形をとって自覚されるようになった.一言でいえば,それは知性を他なるものとのダイナミックな相互作用(対話)として見るということだ.他なるものとは,従来の「思考」の外部にあるもの,すなわち身体,無意識,他者や人工物を含む環境を指す.洞察は無意識との対話であり,機器操作は人工物との対話であり,ライティングは他者との対話である.理解と学習はこうしたダイナミクスの結果として創発し,その限りにおいて初めてその人のものとなる.裏返すと,創発したもの(学習のアウトプット)をそのままその人に付与したところで,理解や学習はその人にとって外的なものにとどまらざるをえない.
 学位論文を提出した翌年(2000年),鈴木先生は「ダイナミカル宣言」と称して(半ば興奮気味に)断続的にblogに記事を投稿している.知性は創発的なものであり,4つの特質を持つ.すなわち生成性(断片的なものが,状況に応じて動的に構成されること),冗長性(一つのことを行うのに,複数のリソースが作用すること),局所相互作用(中央を介さずに局所的な相互作用がなされること),そして開放性(外部との相互作用に開かれていること)である.
 ダイナミカル宣言は,先生がそれまでに得た知識が長い時間をかけて相互作用しあい,あるとき形をとって現れたという意味で,それ自体が知性の生成性のよき例証となっている.こうして生まれた,知性をめぐる先生のメタ理論は,編著や論文の形になって次々と発表された(鈴木, 2001, 2003, 2006).
 ダイナミカル宣言に至る過程はまた,先生にとって,情報処理アプローチを卒業して状況論や身体・わざに関心を移してしまった師匠の佐伯胖氏や,先生には近くて遠かった生態心理学の佐々木正人氏といった,偉大な先達を再発見する過程でもあった.理解や学習は常に時差を伴って,いわば事後的に訪れる.「今になってみればわかる」「気がついたらできるようになっていた」というように.先生は「自分は20年遅れでようやく佐伯さんの言っていたことがわかった」と嘆く.けれどもダイナミカル宣言によれば,この時間性こそが,一人ひとりの個別性(歴史)と,理解における必然性を生み出す本質的な条件なのである.
 時期的にはダイナミカル宣言の後になるが,木村泉氏の折り鶴の研究(10年間に渡って毎日折り続けた記録を分析したもの)に感銘を受けた先生は,2000年代半ばより,身体的なスキル熟達の研究を開始した.課題はレゴブロックを用いた単純作業であり,被験者は一人の学生である.数千回に及ぶ練習の記録を微視的に分析することにより,先生は熟達においてスランプや環境の果たす役割,そして熟達の個別性を魅力的に描き出す(鈴木他, 2008).熟達過程における後戻りや停滞,急激なパフォーマンス向上を準備する様々なリソースの折り重なりなど,ここで観察された特徴は洞察にも,ひいては創発的な知性の姿にも共通するものである.この研究では,熟達や発達が直線的な進歩の過程ではなく,ダイナミックでゆらぎを伴う過程であること,また単なるスキル獲得や発達課題の解決ではなく,その人と周囲の環境との関わり方全体の変化を生み出すものであることなどが議論されている.

5. 『教養としての認知科学』とそれ以降
 2013年からの2年間,鈴木先生は日本認知科学会の会長を務めた.日本認知科学会第31回大会で行った会長講演のタイトルは「知性の生成的,重奏的,開放的性質」であった.2016年には『教養としての認知科学』を出版した.「知性は特別な才能を持つ人の占有物ではない」という一文から始まるこの本は,認知科学の歴史を押さえつつ,ダイナミカル宣言以来の知性観をふんだんに盛り込んだ,鈴木先生一流の教科書である.
 学会長を務め,教科書を出版し,学会フェローに就任されるとなると,研究者としては何やら「上がり」のようにも思われる.先生ご本人も,『教養としての認知科学』の公刊をもって,ダイナミカル宣言はいったん打ち止めともおっしゃっている.
 けれども,『教養としての認知科学』の出版は,終わりというより始まりである.同書の最終章(「知性の姿のこれから」)は,実のところ次なる研究課題の予告編となっている.ここで取り上げられた,きわめてベーシックで,いくぶんかは危なっかしいテーマ群―プロセスとしての概念,世界への表象の投射,身体の拡張(脱身体化)など―こそ,先生が新たに挑戦しようとしている研究課題に他ならない(鈴木, 2016b, 2016c).
 小さくまとまらないこと.本質的で大きなテーマを掲げ,モデルを作り,検証すること.異分野を横断し,開放的な相互作用を続けること.先生の研究姿勢は一貫してこのようなものである.そのためか,先生の研究室には年齢もバックグラウンドもかけ離れた多様な個が集まり,すぐ隣には(一般に相性が悪いといわれる)状況論の研究者たちがいて,時に共鳴し,時に批判を応酬しながら独特な生態系を形作っている.鈴木先生に魅了されて研究室の門を叩いた院生の一人として,先生が引き続き「おもしろい」研究を世に問い,生成と変化の認知科学をさらに先へと展開されることを心から祈念している*.

*なお本稿では,先生の厳しくも面倒見のよい教育者としての側面,自由を尊重する個人主義者としての側面,および,こよなく日本酒を愛する酒豪としての側面には触れなかった.

文献

主要著書,文献,翻訳
鈴木宏昭他 (1989). 教科理解の認知心理学. 新曜社.
鈴木宏昭 (1996). 類似と思考. 共立出版.
開一夫・鈴木宏昭 (1998). 表象変化の動的緩和理論: 洞察メカニズムの解明に向けて 認知科学 5, 69-79.
キース・ホリオーク, ポール・サガード (1998). アナロジーの力:認知科学の新しい探求. 新曜社(監訳).
鈴木宏昭・植田一博・堤江美子 (1998). 日常的な機器の操作の理解と学習における課題分割プラン. 認知科学, 5, 14-25.
鈴木宏昭 (2001). 思考のダイナミックな性質の解明に向けて. 認知科学, 8, 212-225.
鈴木宏昭・開一夫 (2003). 洞察問題解決への制約論的アプローチ. 心理学評論, 46, 211-232.
鈴木宏昭 (2003). 認知の創発的性質: 生成性、冗長性、局所相互作用、開放性. 人工知能学会誌, 18, 376-384.
鈴木宏昭・植田一博 (2003). コミュニケーション的インタフェース論. 原田悦子(編)「使いやすさの認知科学:人とモノとの相互作用を考える」. 共立出版.
鈴木宏昭 (2004). 創造的問題解決における多様性と評価:洞察研究からの知見. 人工知能学会論文誌, 19, 145-153.
鈴木宏昭・舘野泰一・杉谷祐美子・長田尚子・小田光宏 (2007). Toulminモデルに準拠したレポートライティングのための協調学習環境. 京都大学高等教育研究, 13, 13-24.
鈴木宏昭・竹葉千恵・大西仁 (2008). スキル学習におけるスランプ発生に対する事例分析的アプローチ. 人工知能学会誌, 23, 86-95.
鈴木宏昭・福田玄明 (2013). 洞察問題解決の無意識的性質:連続フラッシュ抑制による閾下プライミングを用いた検討. 認知科学, 20, 353-367.
鈴木宏昭 (2016a). 教養としての認知科学. 東京大学出版会.
鈴木宏昭 (2016b). 実体ベースの概念からプロセスベースの概念へ. 人工知能学会誌, 31, 52-58.
鈴木宏昭 (2016c). プロジェクション科学の展望. 日本認知科学会第33回大会発表論文集.
鈴木宏昭・横山拓 (2016). コトバを超えた知を生み出す:身体性認知科学から見たコミュニケーションと熟達.組織科学, 49(4), 2-15.



【編著】
大西仁・鈴木宏昭(編著) (2001). 類似から見た心 (認知科学の探求シリーズ). 共立出版.
鈴木宏昭(編著) (2006). 知性の創発と起源. オーム社.
鈴木宏昭(編著) (2009). 学びあいが生み出す書く力:大学におけるレポートライティング教育の試み. 丸善プラネット.

(横山 拓 記)