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日本認知科学会

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大津由紀雄

2014年フェロー.
明海大学副学長・教授

大津由紀雄先生は1948年東京都大田区にお生まれになりました.立教中学校・高等学校・大学時代にはESSに所属し,そのころから英語教育に関心を持ち,「英語教育は英語のみでおこなわれるべきである」という趣旨の英語スピーチで全国大会で2位に入賞されたそうです.大津先生の現在の言語教育論は「母語を通してメタ言語感覚をみがくことを基礎とするべきである」とのお考えで,若き日々の英語スピーチコンテストで主張した内容について「今となっては当時の考えはまちがっていたと思う」と2013年の慶應大学での最後の講演でふりかえっておられますが,言語について,言語教育について,早期から強い関心をお持ちであったことがうかがわれるエピソードではないでしょうか.

大津先生は1966年に立教大学経済学部に進学され,マルクス経済学などを学ばれたとのことですが,経済学部に身を置きながらも英語教育への強い関心をもちつづけ,1970年,伊藤健三先生の助言にしたがい,東京教育大学文学部に学士入学で3年次編入されました.そこで,理論言語学が専門の太田朗先生,梶田優先生,中尾俊夫先生,宇賀治正朋先生らに「英語教育をしっかりやるには英語そのものをしっかり知らなくてはいけない」という教えを受け,英語学を学び始められたそうですが,当時より理論的説明力のある考えへの関心が強く,英語学の中でも理論言語学に興味を持ち,Noam Chomskyの理論を中心に研究をはじめられたそうです.大津先生の東京教育大学大学院の修士論文研究は言語学のなかでもperceptual strategies(知覚の方略)に関するもので,Otsu(1976,1977)として出版されています.言語学の中でも他の認知領域との接点になるこの分野にとりくみ,独自の成果をあげられたところに,その後の認知科学者としての大津先生のキャリアの原点がみられるのではないでしょうか.

大学院修士課程修了後,大津先生は1975年に和光大学に専任講師として奉職されますが,さらなる理論言語学研究への関心をすてがたく,1977年夏にNoamChomskyのいるMITへとアメリカ留学に旅立たれました.1977年といえば,言語理論とperceptual strategies の接点について論じられているChomsky & Lasnik (1977)が出版された年で,まさに言語の認知科学についての世界の研究潮流にひきよせられるように,その研究の中心へと拠点をうつされました.

MIT Department of Linguistics and Philoso- phy での博士課程の研究生活で体験したものは「認知科学旋風」であったと,大津先生はその後の編著書,大津(1987)の巻頭の「はしがき」に書かれています.めぐまれた研究環境の中で,博士論文研究について模索をされた大津先生は当時 Noam Chom- sky が基本的な考えをまとめつつあった Principles & Parameters 理論 (Chomsky, 1981)にそって,こどもが言語を獲得する際にうまれつきの言語能力がどのくらい早期から発現しているかについて実験研究をおこない,1981年に博士論文にまとめられました.この博士論文はこのテーマについての先駆的研究として今でも諸方面で引用され続けています.
1981年秋,MITの博士号を取得された大津先生は東京学芸大学に助教授として赴任されました.そして,日本の認知科学研究に活発に参加をはじめられました.1983年に日本認知科学会が設立された折には発起人のひとりとして参加され,その後大津(1987)をはじめとして多数の「言語の認知科学」に関する出版物を編著されています.また,海外からの認知科学者の招待も多数企画されました.Susan Carey, Jacques Mehlerのような認知科学研究者の講演会には日本の言語学研究者から多数の参加があり,ときには大学院生などの若手研究者が発表をきいてもらうという機会を提供するなどして,国内外の研究者の交流に尽力されました.

1987年大津先生は慶應義塾大学言語文化研究所に移籍され,授業をする義務はないというめぐまれた環境の中で,活発に研究活動を展開されました.1990年代に大津先生は言語の認知科学について多数の独創的な研究論文を発表されています.

一例をあげますと,日本語の「かきまぜ語順変換(scrambling)」のこどもによる獲得についての論文(Otsu,1994)では,1970年代の研究の「こどもはかきまぜ語順変換の文をうまく解釈できない」という定説を,「こどもは適切な談話状況を与えられればかきまぜ語順変換の文をうまく解釈できる」ことを示すことで,みごとに覆されました.このように,ふつうに調べるとこどもが苦手そうな複雑な操作を,実験方法においてこどもにとってその操作が自然に使われる状況をつくることで,実はこどももその複雑な操作を扱う能力があることをしめすというパターンが大津先生の言語獲得研究には総じてみられます.

同じ方向性の代表的研究として,日本語の「受身文」のこどもによる獲得についての論文(Otsu,2000)では,1970年代の研究の「こどもは受身文をうまく解釈できない」という定説を,「こどもは受身文の主語がそのこども自身をさすものであれば受身文をうまく解釈できる」ことを示すことで,みごとに覆されました.ここでは,「こどもにとっては他者の視点をとることが難しい」といういわゆる「こころの理論(Theory of Mind)」を考慮することで,実はこどもには受身文の操作自体はおこなう能力があることがしめされました.この「こころの理論」という言語固有ではないと考えられる認知機能を考慮することで,「こどもは受身文をうまく解釈できない」という定説を覆されたところに,大津先生の広い視野に立った認知科学研究の大きな成果がみられ,この研究は大津先生が日本認知科学会の会長をつとめられた2000年に会長講演として披露されました.

このように意義深い研究成果をあげられる一方で,大津先生は,ご自身の研究にとどまらない活動も積極的に推進されました.1987年から2002年のあいだ,「三田言語心理学ワークショップ」を定期的に開かれ,2000年から2013年のあいだ「Tokyo Conference on Psycholinguistics」を毎年3月に開催されました.こういった活動のなかから多くの言語心理学研究者が影響を受け,育っていきました.大津先生はこれらの活動において人々に接する際に常に寛大で,ときに若手の研究に実質的に大きな手助けをするような場合にも,共著者として発表に名をつらねるようなことはほとんどなく,最後まで影の存在としての立場をつらぬかれておられました.そのような大津先生のお人柄はつねに慕われ,大津先生の還暦記念論集(Sano, T., Endo, M., Isobe, M., Otaki, K., Sugusaki, K., & Suzuki, T., 2008)には幅広い層から多数の投稿が集まりました.

2013年3月に大津先生は慶應義塾大学言語文化研究所を定年退職され,現在は明海大学副学長・教授,慶應義塾大学名誉教授として活発な活動を続けておられます.2013年1月に慶應義塾大学での最後の授業をむかえられるにあたって,大津先生は「最終講義」ではなく「中締め講義」を自ら企画され,3人の後進研究者をコメンテイタ―に指名し,「大津言語獲得研究を斬る」というタイトルでのトークを課されました.このような開かれた姿勢が大津先生の科学者としての魅力の一つなのではないでしょうか.

最後に思い出話を一つ紹介させていただきます.大津先生が50歳を迎えられた際に,当時「三田言語心理学ワークショップ」に集まっていた仲間がお祝いの箱根旅行をサプライズで企画し,みなで1泊2日の旅行を楽しんだのですが,その帰りにロマンスカーの先頭車両の最前列をご用意したところ,大津先生はそのながめをいたく楽しまれ,「今回の旅行はいろいろ楽しかったが,なかでも帰りのロマンスカーの最前列の体験が最も印象的でした」というおことばをのこされました.最前線に位置して,道を切り開き,仲間を先導していく大津先生のお姿を象徴するこのエピソードをもちまして,大津先生のフェローご就任をお祝いすることばのしめくくりとさせていただきます.

文献

Chomsky, N. (1981). Lectures on government and binding. Dordrecht: Foris.
Chomsky, N., & Lasnik, H. (1977). Filters and control. Linguistic Inquiry, 8, 425–504.
Otsu, Y. (1977). Dative questions and perceptual strategies, Studies in English Linguistics, 5, 163–73.
Otsu, Y. (1994). Early acquisition of scram- bling in Japanese. In T. Hoekstra, & B. D. Schwartz (Eds.), Language Acquisition Stud- ies in Generative Grammar. John Benjamins.
Otsu, Y. (2000). A preliminary report on the in- dependence of sentence grammar and prag- matic knowledge: The case of the Japanese passive: A developmental perspective. Keio Studies in Theoretical Linguistics, 2, 161– 170.
大津 由紀雄 (1976). 知覚の方法の研究. 村井 潤一・ 飯高 京子・若葉 陽子 (編)『ことばの発達とそ の障害』. 第一法規.
大津 由紀雄 編 (1987). 『ことばからみた心 生成 文法と認知科学』. 東京大学出版会.
Sano, T., Endo, M., Isobe, M., Otaki, K., Su- gusaki, K., & Suzuki, T. (Eds.) (2008). An Enterprise in the Cognitive Science of Lan- guage: A Festschrift for Yukio Otsu. ひつじ 書房.

(佐野 哲也 記)