日本認知科学会第13回大会プログラム

セッション特別ワークショップ
題目認知科学を社会化する
時間6月21日(金) 14:00〜16:00
会場大会議室

題目
認知科学を社会化する
オーガナイザー
企画者・司会者:波多野誼余夫(慶応義塾大学文学部)
提案者:亀田達也, 茂呂雄二, 三宅なほみ
討論者:元田浩(大阪大学産業科学研究所)

概要
古典的な認知研究の図式は、いくつもの意味で個人主義的、非社会的であった。具体的には、

1.問題解決やプランニングの過程を、もっぱら個人の心ー脳のなかで生ずる、記号として表象された外界の操作ととらえてきたこと、
2.知識獲得や熟達化などの認知的過程が社会的過程を必然的に伴う(ないしはそれ自体社会的過程でもある)のを無視してきたこと、
3.種としてのヒトが普遍的に持つ(直接生得的制約に基づくないしそれに基づいて獲得された)心の側面のみを重視してきたこと、

などが指摘される。最近のいわゆる「認知革命の第二波」ないし「社会文化革命」に伴って注目を集めつつある、「もう一つの(alternative)」認知研究の諸図式は、これらの欠落や限界の克服を意図しているものとみなせようが、それらが古典的な認知研究の成果をどのように受け継ぎ発展させようとしているか、そうした統合が果たして可能なのかは、現在までのところ必ずしも明らかでない。このワークショップでは、さまざまな角度から認知研究への社会文化的接近を試みてきた三人の主導的研究者の提案をめぐって、それぞれの接近法の特徴やそれと古典的な認知研究の図式との関連づけなどを検討する。

“社会的認知”研究の3つの方向性: 社会心理学の視点から
亀田達也 (北海道大学文学部)

社会心理学における10数年来の社会的認知研究は、最近強い批判にさらされている。いわゆるメインストリームの社会的認知研究は、さまざまな「社会的実体」(人、社会的出来事)を個人がどのように表象し情報処理するのかという、古典的な認知研究図式をそのままの形で踏襲してきた。このようなアプローチは成果を挙げたものの、本質的な部分でどこが「社会的」なのか、個人を超えた集団・社会レベルでの集合現象をどのように説明するのかという(社会心理学者にとって)根本的な疑問に十分に答えていない。
こうした疑問は、“マイクロ-マクロ問題”という一般的なフレームのもとに、社会心理学における1つの主要な問題意識を形成しつつある。マイクロ-マクロの視点とは、個人の認知・行動と集合的な事態との間にどのような相互規定性が存在するのか、そのプロセスを明らかにしようという考え方である。ここでは、そうした発想に立つ研究例として、相互作用的アプローチ、文化心理学的アプローチ、進化論的・ゲーム論的アプローチという3つの接近法を取り上げ、それぞれの特徴や異同を検討することを試みたい。

相互行為のディテール
茂呂雄二 (筑波大学心理学系)

認知科学の社会化のさしあたりの戦略として「相互行為のディテールを尽くすこと」を提案したい。以下がその理由である。
第一に、相互行為そのものの研究の価値。相互行為そのものも認知的であるし、相互行為そのものを表現することが手薄だったことを考慮すると、たとえ認知科学の社会化の議論を離れても、相互行為は認知科学の相当に興味深い課題になるのではないか。
第二に、認知過程のリソースとしての相互行為の重要性。コンピュータや通信機器の使用などの知的実践の場面では、認知的なものが社会的な相互行為そのものである場合も多い。あるいは学習が端的な例となるように、認知過程の変化は協同したり援助する他者を必要とする過程である。現実の実践における認知過程は、道具および他者を巻き込んだ相互行為として展開している。
第三は認知過程の「発生的な理解」。認知科学における社会文化的アプローチのルーツの一人にL.S.Vygotskyがいる。彼の考え方の面白さは、認知過程を歴史的具体的に理解するところにある。現在私たちが認知として目の当たりにするのは、今という具体的な状況のもとでの、行為者・道具・他者・行為の特殊な編成であり、これは対話的なコミュニケーションという原初的な形態が変化して来たものだ、とVygotskyは述べる。そして認知過程はあくまでも「なかば社会的である」とも述べる。このような歴史的な観点はすぐには認知科学と結びつかないかも知れないが有望に思える。このような観点を引き受けるときに課題となるのは、私たちの行なう認知的行為がどのような具体的編成のもとにあるのかを探る課題である。それはつまり相互行為のディテールを明らかにしていくことである。
相互行為は意外にも「豊か」である。これまで行為は、高度な「内的」メカニズムに対して、末梢・外的で付属的・二次的なものと考えられてきたのではないだろうか。あるいは「刺激ー反応」図式の予断からか、ずいぶんと単純化されて想定されてきたのではないだろうか。
しかし最近のエスノメソドロジーと何らかの意味で協同した研究は、行為の「豊かさ」を例証している。それは私たちの認知的営みを支える、身体、道具、空間といった微細な編成を具体的に記述してみせた。これもまたエスノメソドロジーに触発された研究の成果だが、reflexivityの重要性も見逃せない。認知的な行為が、知的な課題解決を実行すると同時に、その行為自身が何らかの認知的行為に向いていることを、協同する参加者に知らせている。つまり比喩的にいえば認知的行為自身がそれがどのような行為であるかを「指示する」ような認知的行為を伴う。そのような「豊かさ」あるいは複雑さをもっている。
認知過程を理解したり記述する際に、私たちにも当事者にも観察可能な、現実の相互行為に注目しない手はない。比喩的にいえば、相互行為という表面には、認知過程の深度が宿っている。

知的好奇心を社会化する
三宅なほみ (中京大学情報科学部認知科学科)

人は知的な好奇心を持っている。この好奇心は、認知心理学のなかではある個人が生まれながらに持つ興味・関心であり、社会の価値観や文化によっては影響されないものとして研究されてきた。人が新たな知識を作り出すことができるために不可欠な認知的メカニズムと考えられてもいる(三宅・波多野 1991 )。
「認知科学を社会化する」一つの試みとして、この知的な好奇心も社会的な側面があり、学習される部分があると考えてみたらどうだろうか。たとえば、Vygotsky の発達の最近接領域説に似せて、人は、社会が有意義だと認める考え方や技術についてまわりに自分より有能なメンバーが存在した場合、意識的にせよ無意識的にせよ基本的にはそのメンバーのできることに対して好奇心を覚え、そのようになりたいと思うと考えて見たらどうか。そうすることによって知的好奇心は、たとえばある特定の社会ではある一定の価値付けを持った方向で出現しやすいかどうかを検討するなど、いままでより具体的に検証可能な構成概念として扱うことができるようになると考えられる。
同時に人は、認知的なものをも含めて自身のスキルを常に向上させようとするアージを持っている。このような認知的アージに基づく認知的競争が存在すれば、それは人の知的好奇心を社会的文化的に誘発されたもの(「とりあえずこの社会での有能なメンバーのようになりたいから知りたい」)から、社会的文化的限界を越えるもの(「他人と同じことしかできない自分ではいたくないから知りたい」)へと変形させる可能性が考えられるのではないか。

三宅なほみ・波多野誼余夫 (1991)「日常的認知活動の社会文化的制約」認知科学の発展 Vol.4. pp.105-131.

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