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乾 敏郎

2016年フェロー.
追手門学院大学心理学部・教授

1. 「なぜ物が見えるのか」
乾敏郎先生は大阪府のご出身で,昭和 51 年に大阪大学大学院基礎工学研究科を修了された後,大阪大学人間科学部助手(昭和 51 年 4 月から昭和 58 年3 月),京都大学文学部心理学教室助手(昭和 58 年4 月から昭和 61 年 12 月),ATR 視聴覚機構研究所認知機構研究室主任研究員(昭和 62 年 1 月から平成元年 3 月),同研究所主幹研究員(平成元年 4月から平成 3 年 3 月)を経て,平成 3 年 4 月,京都大学文学部心理学教室に助教授として着任された.

「なぜ物が見えるのか」を突き詰めることが,人間の認識を明らかにする上で必要であるという問題意識が,先生のご研究の原点にはある.先生は,大阪大学基礎工学部生物工学専攻にて生物計測学講座を率いておられた鈴木良次先生(大阪大学名誉教授,現金沢工業大学研究支援機構顧問)の下で視覚研究をスタートされた.サイエンス社から出版された『視覚情報処理の基礎』には,先生がこの時期に取り組まれていた網膜における受容野特性に関する基礎研究だけでなく,パターン認知の時空間特性に関するご研究も紹介されている.さらにこの時期,神経眼科の先生方と弱視眼の視覚特性に関して,健眼との空間加重特性の違いなども明らかにされている.視覚系に関して当時実証されつつあった可塑性や臨界期といった発達的な特性を背景に進められたご研究であり,後の認知発達のメカニズムに関する研究の原点を見ることができる.

こうした視知覚と視覚認知に関するご研究は,京都大学文学部に助教授として戻られる直前に川人光男先生と提唱された「視覚大脳皮質の計算理論」として結実している.Marr によって 2 次元の網膜像から 3 次元的な外界の立体構造を推測することが,視覚の初期過程の目的として定式化されたが,この問題はいわゆる不良設定問題である.脳がいかにしてこの不良設定問題を解いているかということは極めて重要な問題であるが,先生は川人先生とともに,大脳の各領野間で存在している双方向の結合が重要な役割を果たしていることに着目された.

3 次元の世界から 2 次元の網膜像は物理的な規則にしたがって生成されており(順光学),視覚における不良設定問題は,この逆問題を解いているとみなすことができる(逆光学).「視覚大脳皮質の計算理論」においては,大脳における各領野間の双方向結合によって形成される並列階層構造に,順光学と逆光学の両方を実現するためのモデルが埋め込まれているというアイデアが,アルゴリズムとともに示されている.粗い近似解を最初に求めた後で,信号が循環する間に正しい知覚に到達するというモデルにより,いかにして視覚系が多数の繰り返しを行わずに,速くかつ正確にこの計算を解いているかを上手く説明することが可能となった.

ちなみに,fMRI データの分析ツールの一つである SPM (Statistical Parametric Mapping) の開発に携わっている Karl Friston が近年提唱している脳の機能に関する「自由エネルギー原理」も,その発想の源流にはこの「視覚大脳皮質の計算理論」がある.このように,その後の脳の情報処理に関する研究に及ぼした影響は実に顕著なものがある.

先生は視知覚と視覚認知に関するご研究に取り組まれる一方で,視覚研究の面白さを分かりやすく世の中に伝えることにも熱意を持っておられた.例えば,サイエンス社から出版された『Q&A でわかる脳と視覚』を手に取ったことが,視知覚や視覚認知の研究に関心を抱かせるきっかけになった心理学専攻の学生はきっと多いはずである.

その後,平成 7 年 7 月に教授へ昇格され,多くの大学院生を抱えて乾研究室は大きな盛り上がりを見せていた.この当時,先生は知覚と運動を統合的な枠組みでとらえることに対して精力的に取り組んでおられた.東京大学出版会からこの時期に出版された『認知心理学 1 知覚と運動』をあらためて読み直すと,乾先生がパネル化して研究室に飾られていた統合された知覚運動システムの図が掲載されており,非常に懐かく感じる.こうした中で身体と環境の相互作用の重要性をより強く認識されるようになった先生は,fMRI 研究が京都大学において実施できる環境が整ってきた状況もあり,より高級な認知機能である言語処理に対してご関心を抱かれるようになっていた.

2. 言語の脳科学
平成 9 年頃,「乾先生が言語の研究を始められるらしい」という話を耳にする機会があった(最初に聞いた時には「なぜ?」と素朴に驚いたことを今でも覚えている).当時,先生は国際高等研究所において言語の脳科学委員会を主宰されており,言語理解や生成の脳内メカニズムについての検討・議論を進められる中で,fMRI 研究も既に始められていた.こうした言語処理の脳内メカニズムに関するご研究は,文法獲得を含む認知機能の発達において模倣が重要な役割を担っているという考え方を核とした「運動系列予測学習仮説」へとつながった.聴覚情報から自己の運動情報(構音指令)への変換が,言語の生成と理解において重要な役割を果たしているとしたこの仮説の核となる主張は,言語や発達の研究者との間で大きな論争を引き起こすこととなった.

先生が岩波書店から出版された『イメージ脳』には,先生のそれまでの視覚認知に関するご研究が,どのように言語の問題へとつながっていったのかが非常に明瞭に書かれている.「視覚大脳皮質の計算理論」における,学習された順逆変換によって内的なイメージの生成が可能になるという考え方は,円滑なコミュニケーションに対しても当てはまる.このように,「運動系列予測学習仮説」は言語の獲得におけるイメージ機能の位置づけを明確に示した点でも大きな意義があった.

この仮説に対しては,「工学的楽天主義」といった指摘を受けることもあったようだが,先生は一貫して現象をできるかぎり簡単に説明できるモデルこそが真理であるというお立場を貫かれていた.こうした他の研究者とのやりとりを振り返ると,先生がご講義の中で心理学的研究における「オッカムの剃刀」といった科学的態度の重要性を語られていたことが想い出される.

さらに「運動系列予測学習仮説」は,失語症を中心としたコミュニケーション障害の研究に大きな影響を与え,こうした経緯から乾先生は日本神経心理学会においても長年に渡って理事を務められている.近年は,ミラーニューロンシステムと言語機能の関わりに関する仮説も提案されており,コミュニケーション機能を言語・非言語の違いを問わずに統一的に扱う枠組みを示されている.

3. 発達障害の脳内メカニズム
乾先生がこれまでの視覚情報処理のご研究から言語にその関心を広げられる中で,平成 10 年 4 月に,京都大学内の情報に関連する研究分野が改組・統合されることで新たに創設された情報学研究科知能情報学専攻に生体・認知情報論研究室の教授として移られることになった.

この時期,先生は共立出版から『認知発達と生得性』の翻訳を出版されるなど,認知発達に対してもご関心を向けられるようになっていた.そして,平成 11 年にスタートした未来開拓学術研究プロジェクトを皮切りに,21 世紀型革新的ライフサイエンスプロジェクトや ERATO 浅田共創知能プロジェクトなど数多くの大型研究プロジェクトに参加され,発達障害や認知発達の問題に対して精力的に取り組まれた.これらの研究は,精神病理学的,組織病理学的,臨床病理学的研究および構造的・機能的イメージング研究における知見をふまえた,発達障害の中でもコミュニケーション障害を呈する自閉症およびウィリアムズ症候群の脳内ネットワークの構造の解明につながった.

先生はご研究に取り組まれるにあたって,まずは心理学的および脳科学的な先行研究を徹底的に調べあげることをなされていた.その上で,背後に潜む統一的な原理を優れた着眼点により見出すことでモデルの構築を行い,心理実験などの多彩な手法でその妥当性を検証されてきた.高校時代にウィーナーによる『サイバネティックス』を読まれたことが,人間をシステム的に理解することへの関心につながったと『脳科学からみる子どもの心の育ち』(ミネルヴァ書房)の中で先生は述懐されている.視覚から言語といった人間の知性の幅広い側面について,モデルによるシステム的な理解を成功に導いてきた原動力は,この時期に培われてきたのかもしれない.

4. まだまだこれから
文学部の助教授に着任されてから 24 年(情報学研究科では 17 年)に渡って京都大学において研究と教育に従事されてきた先生は,平成 27 年 3 月にご退職された.現在は,追手門学院大学心理学部にて引き続き研究と教育に対してこれまで以上に精力的に取り組まれている.

同年 1 月に行われた退職記念シンポジウムでの最終講義「認知機能のシステム的理解をめざして」では,さまざまなトピックに対して先生が持たれてきた問題意識がいずれもヘルムホルツに行き着くことを示された.まさに文理双方の研究科に籍をおかれた先生ならではのご講義であった.古くからの問題に対して,脳における情報処理といった枠組みで果敢に挑まれてきた先生の心の問題に対する徹底的に科学的な姿勢は,すべての認知科学を学ぶ人間が範とすべきである.

乾先生は,どんな場面であってもいつも誰よりもエネルギーに満ち溢れておられた(特にカラオケの席では!).教え子にとってはまさに太陽のような存在であり,それは今後も変わることはない.「まだまだこれから」とばかりに,今後も日本における認知科学の発展に大きく貢献していただけると信じている.

文献

著 書
乾 敏郎 (1990). 『視覚情報処理の基礎』. サイエンス社.
乾 敏郎 (1993). 『Q & A でわかる脳と視覚―人間からロボットまで』. サイエンス社.
Inui, T., & McClelland, J. L. (Eds.) (1996). Attention and Performance XVI:Information integration in perception and communication.Cambridge, MA: The MIT Press.
乾 敏郎 (共著, 1998). 言語の脳科学. 『言語科学と関連領域』. 岩波講座「言語の科学」第 11 巻,岩波書店.
乾 敏郎 (共著,2004). 『階層ベイズモデルとその周辺』. 「統計科学のフロンティア」第 4 巻,岩波書店, 171–233.
乾 敏郎 (2009). 『イメージ脳』. 岩波書店.
乾 敏郎 (2013). 『脳科学からみる子どもの心の育ち―認知発達のルーツをさぐる』. ミネルヴァ書房.

訳 書
乾 敏郎・安藤 広志 (共訳, 1987). 『ビジョン―視
覚の計算理論と脳内表現―』. 産業図書.(Marr, D. (1982). Vision:A computational investigation into the human representation and processing of visual information. New York, NY: W. H. Freeman & Company.)
乾 敏郎・今井 むつみ・山下 博志 (共訳, 1998). 『認知発達と生得性―心はどこから来るのか―』.共立出版.(Elman, J. L., Bates, E. A, Johnson, M. H.,Karmiloff-Smith, A., Parisi, D., & Plunkett,K. (1996). Rethinking Innateness:A connectionist perspective on development.Cambridge, MA: The MIT Press.)
乾 敏郎・山下 博志・吉田 千里 (共訳 2006, 2012 岩波現代文庫で復刊). 『脳の学習力―子育てと教育へのアドバイス』. 岩波書店. (Blakemore, S, J., Frith, U. (2005). The Learning Brain: Lessons for Education. Blackwell Publishers.)

学術論文
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Dominey, P. F., Hoen, M., & Inui, T. (2006). A neurolinguistic model of grammatical construction processing. Journal of Cognitive Neuroscience, 18, 2088–2107.
Dominey, P. F., & Inui, T. (2009). Corticostriatal function in sentence comprehension: Insights from neurophysiology and modeling. Cortex, 45, 1012–1018.
Dominey, P. F., Inui, T., & Hoen, M. (2009). Neural network processing of natural language: II. Towards a unified model of corticostriatal function in learning sentence comprehension and non-linguistic sequencing. Brain and Language, 109, 80–92.
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Inui, T., Mimura, O., & Kani, K. (1981). Retinal sensitivity and spatial summation in the foveal and parafoveal regions. Journal of the Optical Society of America, 71, 151–154.
Inui, T., Otsu, Y., Tanaka, S., Okada, T., Nishizawa, T., & Konishi, J. (1998). A functional MRI analysis of comprehension processes of Japanese sentences. NeuroReport, 9, 3325–3328.
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Sugio, T., Inui, T., Matsuo, K., Matsuzawa, M., Glover, G. H., & Nakai, T. (1999). The role of the posterior parietal cortex in human object recognition: A functional magnetic resonance imaging study. Neuroscience Letters, 276, 45–48.
Tanaka, S., Inui, T., Iwaki, S., Konishi, J., & Nakai, T. (2001). Neural substrates involved in imitating finger configurations: An fMRI study. NeuroReport, 12, 1171–1174.
Tanaka, S., & Inui, T. (2002). Cortical involvement for action imitation of hand/arm postures versus finger configuration: An fMRI study. NeuroReport, 13, 1599–1602.

(杉尾 武志 記)