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日本認知科学会

入会のご案内

山梨正明

2014年フェロー.
関西外国語大学教授

1. 先生の開かれた心

山梨正明先生(以後,時々MY先生)は開かれた心の人である.私が先生に会って以来,この印象はずっと変わらない.
私は先生の数多い弟子のうちで,最古参ではないにせよ,おそらく先生との交流期間が一番長いだけでなく一番係わりが深く,(後で説明するように)一番奇妙な縁で結ばれた弟子である.私は研究者として,複数の面で先生に強く影響されたが,それでも私は先生の学問的後継者ではない.実際,学問的には,私は先生の論「友」に近い.
論「敵」ではない.相手との論争を楽しめる間柄,すなわち論「友」なのだ(この場面の一つを評して,共通の友人の一人は「Y先生とK田さんは,いっつも論争しながらイチャイチャしている」と揶揄した).
先生の学問上の貢献の解説は,もっと先生に考え方の近い,他のお弟子さん達に任せる事にして,自分としては,師匠に最大の敬意の表わすために,自分にしかできない事を本稿でしようと思う.先生と学問的には大きく意見が異なる事の多い私が,どうして先生を論「敵」でなく論「友」と思えるのか,その理由を語ろうと思う.つまり,多くの人が知らない逸話をここで披露し,それを通じて先生がいかに心の開かれた人であるかを語ろうと思う.更にそれを通じて,先生がどれほど教育者として(反面教師としての面を含めて)卓越していたかを語る事になるだろう.

1.1 教育者として

先生の関心の幅は驚く程に広い.そして,指導している学生に自分の方向性を押し付けない.学生にやりたい研究をやらせる.少なくとも自力で研究する力量のある学生については,そうである.その上,先生は(本人の言を借りるならば)「飛んで散る」ような,失敗リスクの高い研究も歓迎する.それはおそらく,先生が先入観に捕らわれていないからだ.
先生の研究室の学生は実質的に「放牧」状態にあるのだが,それでも「放置」ではなく,良い意味で「放任」されている.放置でないのは,先生が学生の研究に積極的に係わるからだ.学生は定期的に発表の機会があり,それなりの頻度で自分の関心事をまとめて発表しなければならないからだ.先生は,その機会に徹底的に意見を言う.発表を遮っても,意見を言う.思いついた事は,何でも言う.普通の人が言わない様な事でも,言う(セミナーの発表で先生が発表を最後まで黙って聞いていた事はないように思う).
ただ,先生の発言が批判的か,攻撃的かと言うと,そうでは全然ない.セミナーの場で先生は基本的に研究を貶さない.どんな発表でも,とにかく褒める.どんなに僅かでも見込みがあるなら,褒めて褒めて褒めまくるのである(「ほめ殺し」の言葉が生まれたのは先生の行動が元だったのでは?と疑いたくなるほどである).私は他人の研究の将来性を認める才能で先生を上回っている人に出会った事がない.
先生の口癖の一つは「勉強し過ぎるとバカになる」だ.この意見に文字通りの意味では同調できないが,言わんとする所はきっと「一つの専門で重箱の隅をつつくような勉強ばかりして,専門バカになるな」という事だろう.少なくとも私はそう理解している.
これは自分の身の回りで起きていた事,起きている事を考えると,ありがたい事である.言語研究者には実際,専門バカが多い.端的に言うと,言語の研究では求道が美徳とされ,関連分野に浮気するのは悪なのである.私には,言語学が行動経済学などの研究分野と無関係であり得る理由が,さっぱりわからないのだが,こういう違和感をもつのは自分が先生の下で学んだからなのだろうと思う.
これは認知科学が学祭性を尊重する風潮と良く合っている.実際,先生の研究室は,所属院生が認知科学会で積極的発表を行う,言語学系では数少ない研究室の一つだった.

1.2 研究者としての先生との公式の出会い

先生と私の付きあいが始まったのは,自分が1991年に京都大学に新設された大学院「人間・環境学研究科」に属する先生の研究室を志願し,受験した時だ.
私は当時,5年生までやった上にF文学科の学士入学で不合格になった所で,行く先を探していた.それは暗い3月だった.私の人生の行き詰まりを認めたサークルの後輩Mが,その年の9月(つまり翌年度の後期)から大学院が新設されると教えてくれた.それは教養部が発展したものだそうだ.
私は言った:「えー,やけど,何の準備もしてへんのに,大学院入るなんてムリやろ?アカンわ」(あ,にわか関西弁入ってます).後輩Mは私に言った:「いや,大丈夫ちゃいます?できたばっかりで海のものとも山のものともつかん大学院なんやし,志願者は少ないでしょ?」.
私はMの言葉を信じ,どの研究室なら受け入れてもらえそうか,とりあえず調べた.新設大学院の教員と専門の一覧を眺めながら.
その中に「山梨正明:言語学(環境情報・認知論講座)」の説明を見つけ,私は言った.「あ,この先生,知っとる.3回生ん時に英語の授業取ったわ.授業もオモロかったわ.ここなら,ひょっとしたらイケるちゃうか?」(関西の多くの大学では,n年生の事をn回生と言う)こういう本当にテキトーの極みとも言える理由で私は先生の研究室を志願し,試験を受けた.圧倒的な準備不足もあって,初回の選考試験ではさすがに不合格.だが,志願をキッカケに先生と交流する機会を得て,その後は先生が主催する研究会(KyotoLinguisticsColloquium:KLCと言う名称で,2014年の今でも継続されている)に出入りするようになった.先生の指導の下で修業に近い経験をし,その半年後の二回目の試験で合格した.
これがあったのは20余年前で,それ以来ずっと先生と交流がある.その間にどんなステキな事件があったかは後に語る事にして,まず自分と先生の「再会」のキッカケになった,先生のステキな授業について語ろう.今にして思えば,それこそ先生の開かれた心を知る機会だった.

1.3 教師としての先生との非公式の出会い

先生は当時,京都大学の教養部で英語を教えていた(はい,当時はまだ教養部があったんです).
私は当時,文学部の3年生で,1年生と2年生で外国語の単位を落としまくり,3年生になっても英語の単位が必要だった(でも,そういう人間がその後に言語を研究する事になるのだから,世の中ってのはホントに先が見えない).
私が選択した先生の英語の授業の名前は,もう覚えていない(私は当時,言語学に関心があったので,係わりのありそうな授業を選んだ気がするが,確信はない).その上,私は先生の授業に登録したものの,前期の授業には一度も出席していない.
全体として,当時の自分は大学の授業に興味が持てなかった.端的に言うと,ほとんどの授業が面白くなかったからだ(その反動で,大学の教員になった自分が,なるべく面白く思える授業をしようと四苦八苦しているのだからやっぱり人生ってのは先が読めないものだ).私は議論が好きで,講義形式の授業が根本的に嫌いだった.この傾向は今でも変わらない.
理由は何だったか忘れたが,私は先生の授業の後期の一回目に出る決心をした.授業で何をしているのか知らないので,手ぶらで出席した.
その授業が始まると,先生は教室に見慣れない生徒が一人いるのを認めた.先生は,にやにやしながら私に近づいて来て「キミの顔には見覚えがないな?キミはどこの誰かな?」と尋ねた.間違いなく悪意は籠っていなかった(自由放任で知られる,あの大学の事だから,この種の事態に先生も慣れていたのだろうと想像する).
私も悪びれず「そのはずです.今日が初めての出席ですから」と答えた(今にして思うと何て無礼なんだろうとも思うが,自由放任で知られる,あの大学によっぽど染まっていたのだろう).この不躾な返事にも先生は特に立腹せず,こう言った「そうか.じゃあ,授業が終わるまで待ってなさい.後で話し合おう」.
教室は少しざわついたが,先生は気にせず授業を進めた.教科書が手元にない私は,他にする事がないので自分が持参した本を読んでいた.
先生は授業の最中に教室を練り歩く(それが積極的な目的を持った行動なのか,単に落ち着きのなさの現われなのかは,私にはわからない).自然と私の脇も通る.その時に先生は,私がロシア・フォルマリズムの本を読んでいるのを認めた.
「何だかマセた本を読んでるじゃないか?キミの本か?」と尋ねられ,「そうです」と答える私に「おお,そうか」と応じた時の先生の声は,何だかちょっと楽しそうだった.
授業が終わって,私が先生と「今後」について相談する段になった.正直に言うと,私はどんな注意を受けるのだろうかと相当に覚悟していた.
相談が始まって,先生が開口一番に言ったのは「その本は面白いのか?」だった.それに続いて,本の内容に関して先生から色々と質問を受けた.「○○は知っているか?」「○○は?」.予想外の展開だったが,議論が好きな私は,今後の相談の事は脇に置いて,先生と学問的な話をした.内容を正確に覚えていないが,色々と議論したような気がする.
そうやって10分ぐらい話し込んでから,やがて先生は言った「ボクはこの後に用事があるから行かなくちゃいけない.授業で使っているプリントを渡すから,ボクの研究室まで一緒に来なさい」.
これが「相談」の全貌だった.私は叱られもしなかったし,嫌みの一つも言われなかった.驚いた事に,この先生は私が前期に一度も出席していない「怠惰な学生」である事をまったく気にしていないのだった.あるいは,その事をすっかり忘れてしまっているのだった.
その時,私は直感的に思った「この人は,何て開けた心の持ち主なんだろう」.それから20年以上経った今でも,そう思っている.
先生は要するに,人並み外れて細かい事にこだわらない人なのである.良くも悪くも.

1.4 権威主義から遠い研究者

私には徹底的に嫌いなもの—死ぬほど嫌いと言って良いもの—が二つある.生牡蛎と権威主義である.
私は権威主義者とは絶対に付き合えない.逆に言えば,私が長年付き合って来れたのは,権威主義でない人たちだけである.私は相手が権威主義から遠いほど,その人と長く付き合える.
だが,困った事に,研究と権威主義は表裏一体なのだ.特に大学での研究は,そういうものなのだ.
敢えて言おう.大学の研究者で権威主義的でない人は少数派である.更に言うと,文系の研究者で権威主義的でない研究者は稀有である.
私が先生と学問上の見解が異なる事が多いにもかかわらず,先生を敬愛する論友でい続けられるのは,先生が自分の個人的に付き合った文系の研究者の中で権威主義からもっとも遠い人だからである.
先生との長年の交流から,私は次の事を断言できる:MY先生は

1. 議論が大好きである(必ずしも相手の言うことをちゃんと聞いていないにせよ)
2. 絶対に偉ぶらない
3. 自分の考えを目下の相手に押し付けない
4. 議論で目下の人間を見下さない
5. 目下の者からの異論の申し立てや反論を歓迎する
6. 相手に批判された事を憎まない(おそらく,そういう事実を忘れてしまう)
7. 価値の高いものと価値の低いものを積極的に差別化しない

私は,自分が博士論文を執筆している段階で,先生と学問的な方向性を巡って,幾度となく論争をした.先生の気に入らなかったので,お蔵入りになった章も3つある.最終段階では,罵り合いに近い激しい口論もした.それでも私は博士号を取得できた.それは,先生が博士号を「人質」にはしなかったという事である.断言しても良いが,これは心の狭い人にはできない事である.
先生の大学院での指導の場は講義とセミナーだったが,真骨頂はセミナーの方である.先生の講義は正確には講義ではなく対話に近いもの(一部に「漫談」とも言う向きもあるもの)だったけれど,教師として壇上に上がっているのと,同じ卓を囲んでいるのでは,条件が違う.それは,先生のセミナーが教師と生徒の両方にとって高度に益のあるもの,つまり互恵的なものだったからだ.
これは,他の言語学研究室のセミナーと先生の研究室のセミナーの雰囲気を比べれば,すぐに判る事である.先生の研究室のセミナーでは,発表の途中で誰が,どんな発言をするのも自由だった.学生が先生の発言に割って入って,異論を述べる事も可能だった.私が知る限り,このプロトコルは京大の理学部の研究室のそれに近く,文系の研究室では滅多に実行されない.
他の言語学研究室のセミナーで標準的なプロトコルは,これとは違う.それは学会発表のプロトコルと同じで,発表を途中で遮る事は「ご法度」であり,それを超法規的な形で破って良いのは指導教員のみである.発表者にならなかった学生は,セミナーの大半の時間を,発表者に対する指導教員の「ご指導」を聞いて過ごす.教員の意見は要するに「ご神託」であり,その「ありがたい教え」を頂きに学生はその場にいるのである.こういうセミナーが「お通夜」の様を呈するのは,当然の成り行きである.
このプロトコルの下では,発表の質が悪いと(あるいは発表の質と関係なく教員の機嫌が悪いと),セミナーが指導者による発表者の「学問的私刑」の様相を呈するのも,決して稀ではない.
私は世の中の言語学系研究室の全貌を知っている訳ではないが,自分の在籍した研究室で実践されていた「開放型」のセミナーと「閉鎖型」のセミナー
のどっちが多いかと問うたら,確実に後者だろうと思う.
セミナーで先生は学生との議論を大いに楽しんでいたし,多くの学生も先生との議論を大いに楽しんだ(学生の全員とは言えない.そういうのが苦手な学生もいたので).それは,先生が権威主義から非常に遠い人だったからである.

1.5とある学派の道化司祭として

研究者として見ると,先生の際立っている所は特定の研究を神格化しない点である.
文系の研究者はしばしば,自分の研究分野の特定の成果を「教典」に祭り上げ,その著者を「教祖」にもち上げる.その揚げ句,異なる「教祖」を祭り上げているグループが「宗教戦争」を繰り広げる.この傾向は言語学では余りに顕著なので,そうしない人を探すのが難しい位だ.
先生がこの種の「宗教戦争」と無縁だったと私は言わない.実際,先生も認知言語学という名の学派で「司祭」のような役割を演じたのは,間違いない.
それでも,先生は特定の教典の訓詁学の実践者からは遠かった(そういう人は,言語学の分野には掃いて捨てる程いる).今にして思えば,道化的な司祭に徹する事を決意したのだろう.
だが,重要な事実がある.先生は他の多くの言語学系の研究者と違って「異端」に対して極めて寛容だった.それは私が今でも先生と論友でいられるという事実にハッキリ現われていると思う.
先生のように開かれた心をもった方は,日本の,文系の研究を指導する立場の人としては非常に得難い.ほとんど稀有と言っても良い.そういう先生に出会えて,私はものすごく幸運だったと思う.だから,私は,これからもずっと先生の論友でありたいと思ってる.

2. 山梨先生の略歴

氏は東京教育大学在学中の University of Califor- nia, San Diego (UCSD)校への留学を経て,University of Michigan で博士号(Ph.D)を取得された.帰国後に助教授として大阪大学に着任,その後は京都大学の教授として教鞭を取る傍ら,第一線の理論言語学者として国内外で数多くの研究業績を残されている.
京都大学の人間・環境学研究科で大学院の講座を担当されてからは,言語学の今後を担う優秀な学生を指導された.事実,氏の薫陶をうけた方々が言語学関係の様々な賞の受賞者に名を連ねている.
2012年に京都大学を定年退職なされた後,現在は関西外国語大学大学院で教授を務めている.
氏は日本認知科学会の創設に深く係わられた言語学者の一人である.
氏の研究分野は,理論言語学,認知言語学,語用論,英語学,日本語学の他,機械翻訳,自然言語理解など多岐に亘る.
このような氏の本領は,1988年刊行の『比喩と理解』(東京大学出版会)と1992年刊行の『推論と照応』(くろしろ出版)で遺憾なく発揮されている.この二冊は今でも認知科学的な観点から見た言語研究の金字塔と言える.更に氏が1995年に上梓された『認知文法論』(ひつじ書房)は,言語学の専門書としては記録的な売り上げを残した.それは,当時の主流派に欠けていた言語観を提示し,多くの読者の潜在的な要求に応えるものだったからと言える.その言語観は近年になって認知言語学として定着した.
氏のこれまでの多様な研究の根本には,人間の言語の身体基盤性への追求がある.それは特に,理論言語学が厳密さの追求の名目で陥りがちな空虚な形式化への異議申し立てという形で発揮された.それは主流派の安易な思考法,集団主義的傾向への異議申し立てにもなった.こうした批判的精神を忘れない研究姿勢を日本の言語研究の分野に根づかせるべく,氏は日本認知言語学会と日本語用論学会の設立
の立役者となり,学会誕生後の運営に関わって来られた.
氏は2009年から2013年まで日本認知言語学会長を,2008年から2011年まで日本語用論学会長を歴任された.このような活動を通じて,氏は陰に陽に,認知言語学という研究分野を,日本の言語研究の一大潮流に押し上げた.これは認知科学の発展にも資する所が大であった.

文献

山梨 正明 (1977). 『生成意味論研究』. 東京: 開拓 社. 市河三喜賞受賞.
山梨 正明 (1986). 『発話行為』. 東京: 大修館書店. 山梨 正明 (1988). 『比喩と理解』. 東京: 東京大学出版会.
山梨 正明 (1992). 『推論と照応』. 東京: くろしお出版.
山梨 正明 (1995). 『認知文法論』. 東京: ひつじ書房.
山梨 正明 (2000). 『認知言語学原理』. 東京: くろしお出版.
山梨 正明 (2004). 『ことばの認知空間』. 東京: 開拓社.
山梨 正明 (2009). 『認知構文論— 文法のゲシュタルト性』. 東京: 大修館書店.
山梨 正明 (2012). 『認知意味論研究』. 東京: 研究社.

(黒田 航 記)